彼女が教えてくれたこと 前編
水夫 清
彼女のことを書こうと思うのだが、名前はどうしよう。50年以上も寝たきりの人だし、僕が脚色を加えて書くつもりだから、実名を使うのはためらわれる。 メリー。可憐さより知的な面が勝っている彼女には、ちょっとキュートすぎる。 ジェーン。気丈夫な感じは合っているが、気が強そうだ。ハリケーンの名前に使われたりするような名は彼女には相応しくない。 メリー足すジェーンではどうなるか。キャロルはどうだろう。なんだかぴったりな気がする。というわけで、キャロル。
キャロルに会ったのは、知り合ってからずーっと後のことだ。その前にメールだけのお付き合いが半年以上続いた。インターネットにありがちなバーチャルな付き合いだ。そのきっかけを作ったのが友人からの贈り物だった。
贈り物は洗濯洗剤Tideの段ボール箱で届いた。箱には大きな文字で「タイド リキッド コールドウォーター」とプリントしてあった。水でもよくおちる、と評判の洗剤だ。箱の中には英文の句集やアンソロジー、俳句雑誌が詰め込まれてあった。白い封筒には友人からの短い手紙が入っていた。
「キヨシへ。約束していたものをやっと贈ることができます。貴方のプロジェクトのお役に立てれば幸いです。これからもいい俳画を描いてください。 ブレンダより」
以前、僕はブレンダから打診のメールを貰っていた。長くハイクに関わってきたが、諸事情でしばらく休憩することにした、ハイク関係の書籍も処分したい、ついてはその書籍を貰ってくれるか、という打診だった。もちろん僕は「イエス」と返事した。僕のプロジェクト(世界の俳人から俳句を提供してもらい、僕がそれをもとに俳画を描く)のためにインターネットでハイクを探し回っていたから、まとまって句をいただけたらこんなにありがたいことはないのだ。
本を1冊ずつ取り出す。けっこう埃っぽい。本棚に長く置いていたものをそのまま箱に詰めたようだ。造る人というのは案外、整理整頓や掃除は苦手なものだ。ブレンダも例外ではない。ある本にはコーヒーか何かの大きなシミがついていた。そんな薄汚れた本の中に目を引く1冊があった。緑色の表紙に牧場風景の線画が印刷されてある。その線画が銅板画のように緻密で、しかも上質なものだった。
海外の句集は、俳句発祥の地である日本への憧憬からか、墨絵のようなものを表紙に使う場合が多い。しかし、この句集の表紙は西洋的で詩集のような感じだった。それで目に留まったのだ。タイトルは、『Woodland Farm Haiku for a New England Year』。作者は、キャロル・ケニングトン。僕の興味はそもそも表紙にあったので、句集の中はチラチラと飛ばし読む程度だった。キャロルの経歴についても最初の数行を読んだだけだ。マサチューセッツ州で7代続くウッドランド・ファームという農家に生まれた。幼いころ小児まひにかかり、鉄製の人工肺で命を繋いで来た。そんなことが書いてあった。
そのころ、僕はひとつの句が心に引っかかっていた。
泳ぎより歩行に移るその境 山口誓子
水泳は学生のころから好きなスポーツで、週に1回は学校の帰り道に浜に行き、浜辺に平行して往復2000メートルほど泳いでいた。今も近くのスイミングスクラブに通っている。今まで数え切れないほど、「泳ぎより歩行に移るその境」を経験してきたはずだが、そんな境を意識したことはなかった。
スイミングクラブのプールでは、1,2,3と40まで数えたら1000メートル。25メートルを1にして覚え易いように数えている。20、つまり500メートル泳いだら小憩する。その日は泳ぎながら誓子の句を思い出し、小憩の時には「歩行に移るその境」を意識してみようと考えていた。19、ターンしていよいよ20。クロールのストロークを繰り返していく。あと数メートルでプールの端にタッチだ。「その境」は目の前だ。が、しかし、「その境」はあっけなく終わり、僕はブールの底床に足を着いた。何も感じなかった。あまりにも瞬時だったのだ。そんなに微妙で些細な「その境」がなぜ句に詠まれるのか。「その境」に何があるのか、そして、僕がなぜそれに引っかかっているのか。
わけがわからないものに心引かれることは確かにある。それは自分でも分かる。引かれるものは句だけでなく、絵画にもあるからだ。画学生のころに美術館でみた多くの作品は、評論家の論を読む以前に「何か気になり」そしていくつかの作品には「何かいい」と感じることができた。それは古典絵画からミニマル・アートまでの幅広いジャンルに及んだ。でもわけが分かった訳ではなかった。同様にこの句も何か気になり、そして何かいい、と感じていたのだ。
「泳いでいる時って、水中という空間に浮かんでいるわけよね」 当たり前のことをブレンダは言った。僕はアップルパイの一切れをフォークで口に運んだところで、パイの甘みが口の中に広がるのを楽しみながら首を縦に振った。ブレンダと僕はそれぞれ違う町に住んでいるので、たまにしか会う機会はない。会う場所はここ、いつものダイナーだ。コーヒーの酸味で甘みを中和させてから、僕は言った。
「人間が機械や設備に頼らず、全くの自力で浮く事ができるのは水中のみだ。水を出たら地面に足をつけなくてはならない、そして歩く……」
「歩行というのは人間の普段の姿の象徴、と言えないかしら。日常の煩雑なことがらに向き合いながら生きている、その象徴」
「じゃ、泳ぎは何の象徴だろう」
「何か特別なことをしている状態かな」
「そういえば、ハレとケという言葉があるよね。ハレ(晴れ)は儀礼や祭、年中行事などの〈非日常〉、つまり君の言う特別な状態だ。ケ(褻)はふだんの生活である〈日常〉を表している。泳ぎはハレ、歩行はケにあたる、ということか」
「お祭りって楽しいわ。ウキウキするの」 「浮き浮き、か。なるほど、泳いでいるような感じだね」
「次は〈境〉が問題ね、ハレからケへの」
「非日常から日常に戻る、〈その境〉」
「祭りの後って、なんだか寂しいのよね。境はこの寂しさを象徴しているのかしら。いっぱい泳いで、夏が終わり、そして秋がくる……ような」
「シャガールの絵を楽しんだ後、美術館を出て来たときのような感じ。高揚感がしだいに薄れていく」「シャガールの絵は好き。恋人同士が宙に浮いていて楽しい夢を見ているよう」
「楽しいことがある、それが終わり日常にもどる、そこに寂しさはあるけれど楽しいことはまたやってくる。そんなことを繰り返しながら人は生きていく」
僕は、悟りきったような言い方をしたが、何か居心地が悪かった。浮いている状態が楽しいこと、と単純に結びつけることができなかったのだ。
僕は芸大を出たあと、しばらくは絵を描き続けた。グループ展に参加したり、公募展に出品したり、絵を描くことが主で、生活はアルバイトで賄っていた。経済的に余裕のない暮らしだったが、絵を描く楽しみがあった。その内、今の妻と知り合い、子供が出来、あわてて結婚した。家族ができるとアルバイトだけではやっていけない。
「もうちょっと、地に足をつけたような生き方をしないとね……」
周りの人からそう言われ、僕もそれはそうだ、と納得した。
僕は、親戚のつてを頼って今住んでいる町の公務員になった。職場に遅刻することはなく欠勤することもなかった。与えられた職務は堅実にこなし、順調に昇級していった。子供は3人になった。しっかりと地に足をつけ、歩き続けた。細々とではあるが絵も描き続けた。多少の波風はあるが、概ね幸せだ。これでいいじゃないか。これが僕の人生だ。そう、納得して日々が過ぎていった。
「あなた、食べないの?」
妻の言葉に僕は我に帰った。目の前には注文の料理が並んでいた。
「いい形をした雲が浮かんでいたので、つい見とれてしまった……」
「もう、夏が終わるわね」
僕が見た雲を探すように妻は窓の外を見ながら言った。子供たちはキャンプに出かけていて、明日帰宅する。夫婦だけでゆっくり食事でもしよう、と誘い合って出て来たのだ。食事をしながら、僕たちは夏の家族旅行の思い出などを話題にした。
家に戻り、僕は書斎の窓から再び空を眺めた。僕の家は市街地の一軒家だが、南側は広い駐車場で、2階にある書斎からは広々とした空が満喫できる。僕はベランダに出て空を仰いだ。先ほどの雲はもちろんもうなかったが、明るい青空にいい形の雲が次々と現れて、そしてゆっくりと流れていく。
僕は一瞬、浮かんでいるような感じがして、足下を見た。裸足の両足はしっかりとベランダに着いている。日差しを受けたベランダの床の温みも伝わっている。また、この感じだ、と僕は心の中で呟いた。このごろひょっとしたときにこの浮遊感を覚える。先ほどレストランでボーッとしていたときも実は浮いていたのだ。疲れているのかな。気が付かないうちに何らかのストレスが溜まっているのかもしれない。ひょっとして脳に何か異常でも起こりつつあるのだろうか。地に足を着けた生活をしているのになぜ浮いてしまうのか、と自問してみるが、その訳はわからない。それとも本当はまだ足が地に着いていないのではないか、と自分の生き方に疑問が生まれたりする。浮いている感じはけっして楽しいばかりではない。なんとなく落ち着かなくて、居心地が悪い、そんな気分になることが多くなっていた。
そうだ、キャロルのことを書こうとしていたのだ。書き出して、今もボーッと浮いていた。
あの時、ブレンダから貰った本にひととおり目を通した後、さて、次は誰の句を俳画にしようか、と考えた。30冊以上ある本を眺めていて、キャロルのことが頭に浮かんだ。積み上げた本の中から緑色の表紙を探した。
The sun and the earth
turning somersault in space
the first day of spring!
(意訳)太陽と地球 宙で大回転 春の初日
健康的で明るいハイクだ。寝たきりという体から心が飛び出して大回転までしている。でも心はいつも困難な境遇を撥ね除けているわけではない。
April wind and clouds,
too-bold travel companions…
I am left alone
(意訳)四月の風と雲 大胆すぎる旅友達 私は置き去り
寝たきりのキャロルは、木のように同じ場所に留まる定め。そして、その限られた空間から次のような句がうまれる。
Shadow of new leaves
licker on the ceiling
six a.m. quiet
(意訳)若葉の影 天井にゆらめく 朝六時の静寂
All day long the drone
of the tractor ravishing
he reluctant earth
(意訳)日永トラクターのうなり 嫌がる大地を耕す
キャロルの部屋には近くから遠くからいろいろな音が聞こえてくるに違いない。
Zero air
touching the day
through mittens
(意訳)凍てつく大気 手袋を通してこの日に触れる
体は不自由ではあるが、彼女を支える温かい家族があるのだろうか。 勇気づいた心は再び飛び出していく。
Morning stretch –
sky the blue
of blue blue distance
(意訳)朝が広がる 空の青さ どこまでも青く、青く
キャロルのハイクを読んで、なかなかいいな、と感じた。
米国で詠まれるハイクは概ね写生句だ。正岡子規が提唱した写生という方法からいい句は生まれるが、それは写生する対象や扱い方しだいだ。それが月並みだと、当然句も平凡になる。僕は俳画を描くために多くの句に接してきた。しかし、コウロギや蛙や蝶、月や星や落ち葉が、ありきたりの情景で詠まれ、ハッとするような展開のない句が段々鼻についてきて僕はかなりうんざりしていた。
キャロルのハイクに好感を覚えたのは、写生を土台にしながら句のなかに飛躍があるからだ。寝たきりという状況を考えると、身の回りにある限られたものの写生を出発点として想像を広げて行く方法は自然なことなのだろう。盲腸で入院した以外ベッドに縛り付けられる経験をしたことのない僕にとっては、あくまで「だろう」に留まるが。
正岡子規は写生句を多く詠んだ。
二つ三つ石ころげたる枯野かな
冬木立のうしろに赤き入り日かな
しかし、僕が注目するのは、たとえば、こんな句だ。
いくたびも雪の深さを尋ねけり
夏痩せの骨にとゞまる命かな
人問ハゞマダ生キテ居ル秋ノ風
子規が病床で詠んだ句だ。写生以上のものが詠まれている。キャロルのハイクにも同じことが言える。違いは、大雑把にみて、子規は感傷的でキャロルは楽天的な点であろうか。
子規はやりたいことが山ほどありながら重い病気で臥せってしまった。それはとても辛いことだったろう。感傷的にならざるを得ない状況だ。
キャロルにも感傷的になる時はあった。しかし体の自由が奪われた期間が50年以上も続いていて、その長い時間の中で、感傷はいつしか楽天に昇華していったのかもしれない。
「本、届いたよ。ありがとう」
「こちらこそ、貰ってくれてありがとう」
「ありがたいんだけれど、せめて埃ぐらいは払ってから送ってくれてもよかったんじゃない」
「あら、そんなに埃っぽかった? 気が付かなかったわ」
ブレンダは悪びれるどころか、さらに
「知ってるでしょう、私が整理整頓や掃除が苦手なのを」
「ああ、知っている。ピーターがいつもボヤいている」
ピーターはブレンダの夫だ。
「ピーターなら大丈夫。いつも美味しいものを食べさせているから」
僕はピーターの大きなお腹を思い出していた。確かにブレンダの手料理は美味い。
「ボヤきは、一種の愛情表現なのよ、アハハ。ところで、本は参考になった?」
「なったよ。今、キャロル・ケニングトンという人の句集を読んだところだ。好感を持っていっきに読み終えた。これはぜひ俳画にしたいね」
「キャロル…ああ、あの寝たきりの人ね。キャロルの句は私も気に入っているわ。彼女は、知る人ぞ知るという俳人なの。あの句集はその『知る人』から貰ったのよ」
「キャロルの連絡先が分かるかな。俳画を作る前に了解をとっておきたいんだ。句集には出版社の住所以外は書いてないんだよ」
ブレンダは、分からないので句集をくれた人に聞いてみるわ、と言って電話を切った。
どの句から俳画にしようか。太陽と地球が宙で大回転、という句は視覚表現上のチャレンジがあり、おもしろそうだ…と考えているところに、ブレンダからメールが届いた。メールにはキャロルの住所とメールアドレスが記してあった。マサチューセッツ州のコルレインという町が住所だ。グーグルの地図検索で調べてみると、山の中の田舎町という感じだ。あたりには、農地と牧場らしい開かれた土地が点在している。ゴルフ場みたいだ。その一つが「ウッドランド・ファーム」に違いない。手紙ではまどろっこしいので、メールを書く事にした。自己紹介をし、俳画のプロジェクトについて書き、いっしょにコラボしませんか、とお誘いした。これは非営利の活動です、とも書き添えて送信した。
返事はしばらくなかった。メールアドレスが違ったか、それとも、もう使われていないのか、それなら僕のメールがバウンスして帰ってくるはずだが。返事を待たずに僕は俳画の制作にかかった。イメージがどんどん湧いてきていたのだ。
春のイメージなので背景は明るいピンク色から薄い黄緑へのグラデーションを使う。背景の上には、その全体にかかるように、大きな刷毛でSのような形を半透明の白色で描いた。空には蚊取り線香のように描いた太陽、地上には葉先がゼンマイのようになった細長い緑の草を描き、その何本かは宙に浮かんでいる。画面全体に大回転の躍動が出来た。最後に小さな人体を五体濃いピンク色で描き、Sの形に添って散らした。俳画なので絵の中に文字も書き込む。3行を真っすぐに書かないで1行ずつ異なる曲線になるように書いた。全体の躍動感に調和させるためだ。
最初の1点が出来たころにキャロルからの返信が届いた。
「親愛なるカコ様。すてきなお申し出をいただいて私、うれしくて、うれしくて。コラボはもちろん『オーケー』です。どんな絵が出来るのでしょう。もう、ワクワクしどおしです。誕生日とクリスマスが1度にきたみたい。
オーケーの返事を早く出そうと思ったのですが、なにしろ、口に加えた棒でキーボードを打つので時間がかかってしまいました(鶴が餌を啄んでいるみたい)。『オーケー』だけでは私の気持ちが済みませんので長々と書いてしまいました。返事が遅れたことお詫びします。
もうすぐ音声入力が出来るようになります。便利なソフトが出来たから注文すると兄がいってくれました。兄は私のコンピュータのお師匠さんなのです。兄以外に体の不自由な私を助けてくれる人々がいます。両親、兄の妻、弟夫婦、そして小さな甥や姪たちも。
私は1948年に生まれ、とてもハッピーな幼児期を過ごしました。でも、7歳のときに急性灰白髄炎、所謂、小児麻痺を患い、それが悪化して足や腕、指などが動かなくなりました。それでも2本の指は動くのでトラック・ボールを操作してコンピュータを使うことができます。それと口に加えた棒ですね。悪化は続き、胸の筋肉や横隔膜まで麻痺し、自力では長く呼吸ができなくなりました。胴の回りに鉄製の器具(なんだか亀さんになったようです。そう私は鶴と亀、なんだかめでたいですね)を着けています。呼吸運動を助ける機械です。
口にくわえた棒で本のページを繰る事もできます。ハイクの本もそうしてたくさん読みました。作句するようになってからは、オンラインの句会に参加するようになりました。賞もいくつかいただいたのですよ。
キヨシさんが読んだ句集は受賞記念に出版しました。それが廻り回ってキヨシさんの手元に届いたのですね。なんだか不思議な縁を感じます。今回のコラボ、本当に楽しみにしています。それでは、また。 キャロルより」
メールを読みながら、僕の心もピンクから黄緑のグラデーションになっていくような気がした。喜び方がうまい。僕は鉛筆を口に加えて目の前にあるキーボードを突っついてみた。ツルツルすべってキーが押せない。一文字だって打てやしない。慣れていても、これだけの分量のメールを書くのは並大抵なことではないだろう。僕は胸に手を置いて鉄の甲羅を想像してみた。鎧ならかっこいいのだが、と不謹慎なことも考えた。キャロルをもっと喜ばせてあげよう。僕はそう思った。
1作目の「大回転」の俳画に微調整を加えたあと、jpg画像に変換し、メールに添付した。メールには、コラボに賛同していただいたお礼を先ず書き、気が早いので早速1点描いた、添付の俳画はいかかでしょうか、と尋ね、返事はゆっくりでいいですよ、と締めくくった。
この第1作はイメージがすんなりと湧いて完成した。そういう風に出来た絵は大抵うまくいっている。僕はキャロルのメールを読んでいてキャロルの病状に面食らっていた。難病を抱えながら前向きに暮らしている人は世の中に多くいる。そして、ここにもひとりいる、と同情と感動の入り交じったような気分になっていた。そういう特別な気持ちが僕の創造力をかきたて、スッと絵ができたのかもしれない。キャロルの満足を得ることはできるだろうか。自信はあるが、さあ、どうだろう。
それにしても、急性灰白髄炎という病は難病だ。その夜、家事を終えた妻にこの病のことを尋ねた。妻は結婚する以前から小児科の看護婦をしている。近々、婦長に昇格するらしい。この難しそうな病名を僕が口にすると、
「Poliomyelitis、略してポリオ。とても怖い病気だったのよ、以前は」と妻は応えた。
以前は、約半世紀に渡りポリオのウィルスがこの国に蔓延し、子を持つ親を震え上がらせていたらしい。そのウィルスがある時期、突然のごとく消えていったそうだ。
「キャロルさんが発病したのはいつ頃かしら」
「1948年生まれで、7歳に発病と書いてあるから…1955年だね」
「そう…それは残念だったわね。ちょうどそのころにウィルスが居なくなったのよ。それに、発病はしてもほどんどの場合は風邪のような症状だけで、麻痺が現れず治癒するの。キャロルさんの場合は稀なケースね。お気の毒だわ」
「たしかに、気の毒なのだけれど、彼女のハイクからは逆の印象を受ける。いいハイクを詠んでいるんだ。僕のできることで応援してあげたい」
そういう思いで、僕は2作目に取りかかった。「四月の風と雲」の句だ。「私は置き去り」という部分、そして彼女が住むニュー・イングランド地方、この二つから僕はアンドリュー・ワイエスの絵を思い浮かべた。『クリスティーナの世界』という絵だ。草原に手をついて後ろ向きに座る女性、遠くには古びた農家がある。この女性のポーズをお借りしようと考えた。ポーズをよく確認するためにその絵をウェブで探したとき、僕はある偶然に驚いた。クリスティーナは、実はポリオを患っていて歩けない。この絵は、彼女がなんとか家に辿り着こうとしているシーン、との説明を読んだのだ。僕はこの偶然に勢いづいて、さっそくポーズをデッサンし、コンピュータに取り込んだ。ワイエスの絵は横長だが、僕は縦長の構図を選んだ。空を大きくとるためだ。その空には風と雲の象徴として、渦巻き形の抽象形を描いた。そして、それらが絡み合うように配置した。広い空で躍動する雲と風を女性が見つめている、というシーンができあがった。
数日たって、キャロルから返信メールが届いた。
「カコさんではなく、キヨシさん、と書いていいかしら。キヨシさんの俳画を見ていると、私の気持ちをよく掴んでおられて、私の古くからの知人のような気がするのです。ですから、改めて、キヨシさん。たった3行だけの言葉でこれだけの表現ができる、そのことに私は驚いています。キヨシさんの俳画は、ハイクの説明ではなく、ハイクが持つ詩情が色、形、線、構図などを通して表現されています。文字のフォントや配置にも工夫がありますね。正直いって、詩情というものが文字以外でうまく表現できるとは思っていませんでした。
私は俳画を見て、このコラボの意味がよく分かりました。私は文字で、キヨシさんは絵で詩情を表現するのですね。私のハイクとキヨシさんの絵が組合わさることで、鑑賞に膨らみが生まれたように思います。ちょうど絵本のように、より多くの人々が、それは小さな子供たちも含めて、私が感じた詩情を味わえるようになったと思います。本当にうれしい。作句に新しい楽しみが加わりました。キヨシさん、私はこのコラボに乗り気です。気の早いキヨシさんだから、もう2作目を始めているかもしれませんね。もしそうなら早く見たい。楽しみにしています。 キャロルより」
キャロルからのメールについて、このあたりで読者に釈明しておかなければならない。僕はキャロルのことを「脚色を加えて書く」と最初に書いた。確かにそんな部分はあるしこれからも出て来るだろう。しかし、メールの中身はほぼ原文通りだ。自分で自分のことを褒めるようなことは恥ずかしくてできないし、僕の性にあわない。できれば、キャロルのメールを引用したくないのだが、そうすると話がうまく流れなくなる。そういう訳なので、くれぐれも、鼻持ちならん奴だ、とお思いにならないよう。
僕は第2作目もメールに添付して送った。そして、3作、4作と次々と描いていった。新しい俳画が届くたびに、キャロルは返信メールで喜びの言葉を伝え、自分のこと、家族のことなどを書いてくれた。
キャロルの家はウッドランド・ファーム(農場)と呼ばれ、1780年代から農業と牧畜を営んでいる。1780年ごろといえば、アメリカ合衆国最初の13州ができたころだ。歴史の浅い米国としては、ずいぶん古い家柄になる。代々同じ土地で同じ生業に従事してきた堅実な家柄といえる。
キャロルが小学校に上がったその初日、頭痛と発熱のため早退し、その後2ヶ月に渡って入院することになった。病状は悪化の一途を辿り、身体機能が著しく衰えた。呼吸運動にも障害がでるようになった。人工肺がなければ生きていけない体になっていった。入院はさらに続き、家に戻ったのは1年半ほどたってからだった。家では、両親がリビングルームをキャロルの部屋に模様替し、人工肺が停電で止まらないように発電機を設置してくれていた。
そのような状態なので学校に通うことができない。しばらくして町役場の配慮で、教室とキャロルの部屋が電話で結ばれた。電話で授業に参加できるようになったのだ。このような形式でキャロルは勉強を続け、地元の短期大学の授業もうけることができた。
キャロルにとって、詩を書くことが楽しみになった。詩は書けるが朗読することは難しかった。息が続かないのだ。そしてある時、知人が句集を贈ってくれた。ハイクと出会い、その形式がすぐ気に入った。短い言葉で多くを語ることができるし、なにより一息で朗読できることが嬉しかったのだ。
キャロルには姉と兄そして弟がいる。姉は近く(といっても車で30分はかかる)の農家に嫁いでいる。兄と弟はボストンやニューヨークに出て働いていたが、家族が出来てからはウッドランドに戻り、両親を手伝うようになった。おかげで農場の規模は拡大している。寝たきりのキャロルの周りには、両親、兄弟、その妻たち、そして子供たちがいる。キャロルは大勢の肉親と幼い甥や姪のおもちゃに囲まれて暮らしているのだ。
健常者の僕には想像し難いことだが、キャロルにとっては、ポリオの重度患者である、ということは自身のごく一部なのだ。彼女の周りには豊かな自然があり、温かい家族があり、そして詩、ハイクという表現手段がある。
「根がある暮らし、ということについては私には一家言あるの。何十年も寝たきりで、ベッドに根が生えたような暮らしをしてきたから、それがどういうことなのかを語ることができる。でも根はベッドだけではないのよ。家族など私を取り囲むすべてのものにも私はしっかりと根付いている。なにもかもありがたいと感じているのよ。心が、孤独と絶望の風に翻弄されても怖くない。けっして糸の切れた風船にはならないわ」
あるメールにはそんなことが書いてあった。
「しばらく顔を見なかったね。なんだかウエストが太くなったんじゃないの?」
水中眼鏡を調節しながら知人が冷かした。僕は10日ぶりにプールサイドに立っていた。ほぼ精勤の彼からすると10日ぐらいでも「しばらく」ということになるらしい。僕は早く泳ぎたかったので、どうでもいいような返事をして耳栓を詰めた。プールの壁を蹴って、6〜7メートルほど水中を進む。手の先から足の先までまっすぐに伸ばし水中に浮かぶ、ほんの数秒のことだが、僕はこの状態が好きだ。25メートルごとに訪れるこの状態を楽しみながら500メートル泳いだ。小憩してさらに500メートル。
泳いでいる間は、いろんなことを考える。考え過ぎるとターンの回数を忘れてしまうので、ほどほどのことしか考えない。「泳ぎより歩行に移るその境」という句のことが再び頭に浮かんだ。それから隣のレーンを泳いでいる女性のことを考えた。水中では、引力から少し解放されたおばさんの体はとても奇麗に見えるのだ。そして、「根のある暮らし」についても考えた。根があれば、つまりアンカーがしっかりしていたら、ふわふわ浮いていても安心だ。浮くということは本来気持ちのいいことなのだ。僕だって25メートルごとにそれを味わって楽しんでいる。体調はいいから突然心臓麻痺になることはないだろう。たとえなったとしても一言多い知人がすぐに助けてくれる。ブールサイドの櫓で見張っているガードのお姉さんもすっとんできてくれる。足が痙攣した場合でもプール自体は浅いし簡単には溺れない。そういう諸々の安心材料、つまり「根」があるので僕は水中の浮遊をエンジョイすることができているのだ。本来楽しいことを楽しいこととして楽しむことができている。
「地に足を着けた暮らし」を自分はしてきたつもりだ。足を着けるだけで十分なのだろうか。地に着いた足には根も生えていなければならないのでは、と泳ぎ終わった時にフッと思った。
体を洗う前にサウナに入った。地元野球チームの監督さんが先客でいたので、今シーズンの成績などについて二言三言言葉を交わした。今年はまあまあだが、来シーズンには有望な選手が主力になるから楽しみだ、と教えてもらった。
僕は十分計の砂時計をセットして、さきほどフッと思ったことをさらに考えた。順序立てて考えてみようと思ったのだ。
まず、「泳ぎより歩行に移るその境」だ。泳ぎは非日常、歩行は日常という解釈はブレンダとの会話で出て来た。他の解釈もあるだろうが、そういう解釈は成り立つな、と僕は思った。僕にとって日常とは役所の勤めのことが主になる。非日常とはたまの休暇や家族旅行になるだろう。夫婦でのちょっとしたお出かけも含めることはできる。個人的には絵、特に今は俳画を描くことも非日常的な行ないだ。俳画は小さな作品なのですぐに出来る。日常の中のちょっとした時間にその非日常を組み入れることができるので僕はけっこう気に入っている。
そのちょっとしたことが諸般の事情でできないと、なんだか落ち着かなくなってしまう。満たされない思いが膨らんでいく。切ない気持ちが湧いてくる。そう、「その境」は切ないのだ。だから、もっと非日常がほしい、絵が描ける時間がほしい、と内心願っている。どうやら、ある程度その願いが叶っているのに、まだ充分ではない、というのが僕の現状らしい。それで、時々、ボーッと浮いてしまうのだろうか。このことと、「根」のことには関連があるのだろうか。
僕は地に足を着けて暮らしてきた。仕事は順調で相変わらず元気に勤めている。家庭はどうか。最近の困った出来事といえば高校生の長男が喫煙で1週間の謹慎を食らったことぐらいだ。そう、それと妻が外反母趾の手術で10日ほど入院したこと。その妻も今は仕事に復帰しているし、長男はふてくされた態度で学校に通っている。この程度だから、おおむね家庭も順調といえる。家のローンは数年後に払いきる予定だし、各種保険も万全。子供たちが大学にいくために貯金もしている。僕自身の日々には、「飲む」はほどほどあるけれど、「打つ」は10ドルまでと決めているし、「買う」ははっきり言って、ない。妻は学生の時、チアーガールだったから容姿は人並み以上だし、人間性は尊敬すらできる人だ。他の女性に対しては、泳いでいるおばさんを奇麗だな、と思うぐらいのこと。
うん、確かに地に足が着いている。自分自身に納得させるように軽く頷いた。額から大粒の汗がサウナの床に落ちた。足下に小さな水たまりが出来ている。……その足には根が生えていなくてはならないのか。それはどういうことなのだろう。ザッと拾い出してみても、僕の周囲には安心材料というか「根」は十分にある、と思う。アンカーはしっかりしている、と思う。それなのに浮遊したような気分になったとき、なぜ不安に感じるのだろうか。本来楽しいはずの浮遊がなぜ素直に楽しめないのか。頭がボーッとしてきた。もう限界だ。これ以上は無理だ。十分計の砂はすでに落ちきっていた。暑さに耐えられなくて、僕は、ちょっとふらつきながらサウナを出た。
入浴を終え、着替えを済まし、僕は受付のカウンターでメンバーカードを受け取った。あの目の奇麗な女性だ。僕はカードを受け取りながら彼女の目に微笑を贈った。そう、僕は、水中のおばさんだけでなく、若い子にもちょっとは気持ちが動く。
大きな太陽が西の山に隠れようとしていた。スイミング・クラブを出たとき、その眩しい光が僕の目を射った。ズキン。頭の奥の方で痛みが走った。あれっ、と思うまもなく頭痛は脳みそ全体を駆け巡り、僕はたまらず車寄せの柱に凭れ、ずるずると床に座り込んだ。痛みは停まらない。胃の具合も変だ。ムカムカしてきて、こみ上げてくるものを押さえ切れず、僕は柱の根元に少し吐いた。つい今しがたまで、軽快に泳いでいたのにこの体調の急変はなんだ。こんな経験は初めてのことだ。どうしたというのだろう。吐き気は治まったが、不安が膨らんでいく。それでも、しばらく柱に凭れて座り込んでいる間に頭痛は和らいできた。僕はペットボトルの水で口をすすぎ、二、三口ゆっくりと飲んだ。夕日はすでに山向うに隠れ、残照が僕を包んでいた。
家に帰る途中、スーパーの近くに来た時、僕は買い物を思い出した。駐車場に車を停め、車外に出て立ち上がった。その瞬間、また頭痛が襲ってきた。先ほどより痛い。やばいな、これはただごとではないかもしれない。僕はスーパーとは反対方向に歩き出した。すぐ近くに友人が営むクリニックがある。とにかくそこで診てもらうべきだ、と判断したのだ。一歩一歩が頭に響く。おもわずしゃがみこんでしまいそうになるが、歯を食いしばってクリニックに辿り着いた。しかし、僕の気力はそこまでだった。入口のドアからなだれ込むように僕は倒れた、らしい。記憶の方もそこまでだったのだ。
(つづく)
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2009-09-20
水夫清 彼女が教えてくれたこと 前編
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2 comments:
清さま、
キャロルのハイクは「境涯俳句」に入るのかもしれませんが、そのポジティブさにおいて所謂闘病俳句の世界とは異なる所にあると感じます。ここに掲げられた6句には生きる力が満ちてゐて、闘病につき物の感傷がありません。特に、somersault, ravishing, the blue of blue blueといふ強い言葉に、寝たきりであるキャロルの強靭な生命力を感じます。かういふ強さはなかなか日本人にみることができません。文化あるいは宗教観の違ひによるのでせうか。たしかに、単なる写生に終らず、物に情を語らせる奧行きがあります。それでゐて理に陷るわけでもありません。とても新鮮なハイクだと感じ入りました。後編を楽しみにしてをります。
コメントをありがとうございます。そして、キャロルさんの句に共感していただき、これも感謝。彼女に関する記事は下記にありますので、興味があればご覧ください。
http://www.eric-goldscheider.com/id23.html
こちらの方は米国のジャーナリストによるノン・フィクションです。
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