今日の耳 山田露結
早早と雨の降り出す牡丹かな
揚羽蝶大きく翅を倒しけり
雨脚の描く直線祭笛
睡蓮に見覚えのある空ばかり
行水を終へあたらしくなる女
仏壇にもつとも遠き金魚かな
大の字となりて打たるる夏の雨
草いきれ屍は土へかへりけり
夏風邪や水道水のうつくしき
夕立の月を濡らしてあがりけり
夏痩せて古き映画の中にゐる
国中の画面が点る終戦忌
秋扇の開け閉て待つといふ心
箪笥から紐の出てゐる秋津かな
姿見の中に雨降る秋燕
鰯雲空を征してさびしけれ
沖ばかり荒れて柳の散る日かな
虫の声濁世の側で聞いてをり
走るたび少年老ゆる芒原
湖の水面閉ぢたる良夜かな
秋草や織機にかかる絲の数
窓口をひとつ置きたる花野かな
立つ人の光となりし秋の浜
火恋し女の部屋にやはり猫
秋の蝶三面鏡を閉ぢにけり
闇おほき父のコートに身を入るる
光年の端にわれあり冬銀河
隼の速度以て空縮めけり
横丁や冬雲の腹見上げつつ
女らが客の話や日短か
毛衣や第六感を養ひぬ
冬の波聞くためにある今日の耳
浮寝鳥血は体内を急ぎたる
歯を磨くときどき冬の空覗き
姿見の火事を映して火事の中
縄跳の同じ着地の悲しからず
冬日射す希望に似たり希望でなし
初夢の打ち上げられてゐる汀
春近き千鳥格子を纏ひけり
階段の外してありぬ薄氷
ものの種掴み信心らしきもの
菜の花やスコップを手に五六人
ふらここを漕がなくなりてより老ひし
包丁のうすうす曇る猫の恋
風船のはや天球に閊へたる
山を出て海の見えたる桜かな
みたらしはたれ纏ひけり花の冷え
春雨に墨交じる夜のありにけり
耳少し遠くなりたる朧かな
春の虹座らぬ椅子の置かれある
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2009-10-25
テキスト版 2009落選展 山田露結 今日の耳
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2 comments:
姿見の火事を映して火事の中
火事の内部を詠んだ句はめずらしい。現場で写生するわけに行かないことが多いので、当然だが、そういう句があっても、いい。消防士さんでなくても、詠んでみていいと思う。
姿見が炎を映して、それが炎の中にある。景としてはシンプルだが、その虚構をレトリカルな処理が支える。
非レトリカルな語調は、虚構を語り得ない。虚構は、良い意味でも悪い意味でもオトナのものだ。レトリカルな処理も同様。良い意味でも悪い意味でもオトナのものだ。
さて、俳句というものが(と、イヤに大上段に)、虚構へ向かうべきなのか、非・虚構へ向かうべきなのか。同時に、レトリカルな処理の正否は?
知ったこっちゃないが、虚構を否定する人は、ことばがすでに虚構であることを忘れている。虚構を肯定する人は、虚構が、現実という作者・読者の共通のレファレンス(参照)が基盤になっていることを忘れがちだ。
コメントありがとうございます。
>虚構を否定する人は、ことばがすでに虚構であることを忘れている。虚構を肯定する人は、虚構が、現実という作者・読者の共通のレファレンス(参照)が基盤になっていることを忘れがちだ。
至言ですね、忘れないようにします。
「ことばがすでに虚構」であるのなら、いっそ、徹底的に虚構でやってみよう、と時々思うのですが、ナカナカ技術がついてきません。
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