2009-10-11

〔週俳9月の俳句を読む〕北川あい沙 健気な脇役 

〔週俳9月の俳句を読む〕
北川あい沙
健気な脇役


小鳥くる手を合はすとき指組むとき  ふけとしこ

祈りとは自分の願いを解き放つこと。ひとが祈るとき解き放れたその願いは天に届き、そして名もない小鳥となって戻ってくる。この絶妙な取り合わせが醸し出す切なく優しい安堵感はそんなことを連想させる。特定の鳥でもなく、動作も祈りに限定されていないことがかえって句の奥行きとなり心に残る。

お日柄のよし藤の実のこんなにも

近所に藤棚がある。そこに藤の実を見つけた。その実のむこうにはきれいな空が見えた。何の変哲も無い日でも、お日柄を気にしたとたんその日は良い日になったり悪い日になったりする。そしてこの日はお日柄の良い日。下五の軽い驚きはこんなにもたくさんの実が!なのか、こんなにも長い実が!なのか。当たり前の日常のささやかな良き日に、みどり色の藤の実がちょうどよく垂れ下がっている。

零余子落つ人の名呟けるやうに

零余子とは「零(ゼロ)」にも「余る」小さなものという意味だとか。主役はあくまでも地中で育つ芋であり、零余子は健気な脇役である。葉の付け根からこぼれ落ちる実は小さいながらも発芽して新しい苗となるらしい。
さて、人の名を呟くときとはどんな時か。呼ぶのではなく呟くのだから、そこに居るのは自分ひとりなのだろう。その呟きにも似た音で落ちる零余子の健気さが切ない。



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