居心地の悪い身体
柴田千晶句集『赤き毛皮』
三宅やよい
柴田千晶の名前を初めて知ったのは「東電OL殺人事件」にまつわる詩を読んだのがきっかけだった。エリート女性社員が夜は娼婦として路上で客を勧誘し、殺されたということで大々的にマスコミ報道された。柴田千晶はこの事件に触発されて『空室』を書き上げ、続く『セラフィタ氏』では派遣OLの生活と性を題材に詩を書き綴っている。
一連の詩を読むと彼女にとって都会に生きる女の性と孤独と死が切り離せないテーマとして流れ続けていることがわかる。それはこの句集のあとがき「花嫁の性」(「俳句界」2007年6月号初出)のでも明らかである。
男根、魔羅、女陰という言葉を使うと破礼句なのか?私は現代詩の書き手でもあるが、十代のころから一貫して「性」を主題に詩を書いてきた。自己の性を描くことで、この世に存在することの不安と孤独を書いてきたつもりである。 「性的な私」の、この生き難さはどこからくるのか。 志としては、私は「性」を主題に「人間」を描きたいと思っている。 俳句に向かう姿勢も詩と同様である。 男根、魔羅、女陰という言葉の持つイメージのみで作品全体の主題を限定されることが、表現者の本意でないことは言うまでもない。「性」を主題にというと鈴木しづ子の俳句が思い浮かぶが、彼女の場合は実人生とからみ合わせて「性」がとりざたされるが、戦後の時代を未婚女性が生きぬくうえで格闘したものが結果的に俳句に表れているとはいえ「性」を詠むことが彼女の本意だったかどうかはわからない。ただ、しづ子の句作への反応によっても、「性」に対する俳句世界の狭量さはわかる。
欲るこころ手袋の指器に触るる 鈴木しづ子
ひらく寒木瓜浮気な自分におどろく
春雷の不貞の面擲ち給へ
けんらんと燈しみだるる泪冷ゆ
性悲し夜更けの蜘蛛を殺しけり
体内にきみが血流る正座に耐ふ
昭和二十三年「樹海」三月号から続けざまに発表されたこれらの句群は数々の批評にさらされた。「樹海」十月号に特集として組まれたしづ子作品への句評を読むと、「率直に女の性を表現した今までにない俳句」と好意的に評価する意見もあるが、「成年した女性のあくどい意欲と大胆さが好ましくない」とする見方をはじめ大なり小なりしづ子の私生活への憶測と俳句を結び付けて鑑賞された。
冒頭句の「器に触るる」の「器」を男性器と解した読み方もそこから生まれたのだろう。この句を単独で読むなら指先の扱いが不安定な手袋をはめたままその美しさに強く引かれて器を手にとってみた。その危うい気持ちを託した句に思える。この句の背景にしづ子の私生活を過剰に意味づけして「器」に性的な意味をかぶせ、興味本位に女の性を覗き込む嫌な視線が焙りだされるようだ。最後の句は奔放な性生活の果ての妊娠と解された。
しづ子の句からは自分が感じたところに正直であろうとする一途さが伝わってくる。甘い抒情に女の性を溶かし込んでしまわないまっすぐな視線、甘えを捨てて女の性を突き詰めていくと、一筋縄ではいかない部分が出てくるのは当然だろう。
鈴木しづ子が時を置いて取り上げられるのは、彼女の句の魅力だろうが、それと同時に性を通じたしづ子の話題はもういいといった気持ちにもなる。それはしづ子を通して語られる物語がさっぱり現在的問題に更新されないからだろう。
いま、ある実感を通じての身体と性の在りどころを探る俳句がどれほどあるだろう。もし真剣に性に立ち向かうならば必然的に引き寄せてしまうなまぐささが柴田千晶の句にはある。
夜の梅鋏のごとくひらく足 柴田千晶
片栗の花大腿は真昼なり
鰯雲の不思議な日暮排卵日
まはされて銀漢となる軀かな
体内に器具の感触冬薔薇
闇汁の魔羅女陰(ほと)乳房喉仏
これらの句がそれに相当するだろうが、女でありながら性を否定したい気持ちがどこかにある私などにとっては後ずさりしてしまうぐらいの踏み出し方である。
その踏み出しを性的な言葉を大胆に使うといった点で捉えられると、しづ子同様、あからさまな興味と拒否にさらされることも多いだろう。しづ子は前述のような物見高い視線に挑戦するかのように、より直截な表現を俳句にぶつけていった結果、彼女の作る句全体に「性」のフィルターがかかってしまったように思うが、口当たりのいい身体感覚では表しきれない生と性との断絶こそが問題なのだ。その断絶を回復するためにはより過激にならざるを得ない。
「性的な私」の、この生き難さはどこからくるのか。
前述の「花嫁の性」で書かれたこの言葉を俳句という最短詩型に託したのがこれらの句なのだろう。いやそう真面目くさった表現で言わなくとも、作者はこうした句を書き表すことで読み手から跳ね返ってくる軋轢を楽しんでいるようにさえ思える。
父母を題材にした句にもひかれた。
小鳥来るタネ百歳の肖像画 柴田千晶
犬蓼と交換したき母のあり
空缶に母の櫛ある寒暮かな
雁風呂や生木のやうな父の臑
バリカンで刈る母の髪秋桜
いつまでも減らぬ水飯と家族
家族とは離れていると懐かしさもあるが、身近にいると鬱陶しくも重たいものである。都合のよいときに消えてくれる相手は家族とは言わない。その持ち余りする愛憎がこれらの句には込められている。
「犬蓼と交換したき」と息詰まる母を突き放して表現したかと思えば、バリカンでおとなしく髪を刈られている年老いた母は庇護する対象として両手で囲わんばかりの愛情にあふれている。
俳句的表現は散文的な匂いを消し去って、抽象化された「父」「母」を描く傾向にあるが、ここには「老い」と「死」を抱え込んだ家族そのもの、作者にとって取り換え不可能な「父」や「母」が描かれている。
春の闇バケツ一杯鶏の首 柴田千晶
コピー機に残る履歴書寒夕焼
捨てられし冷蔵庫開く桜山
東京上空巨大薬玉割れ始む
梅雨夕焼祭のやうなトラック来
白く乾いた街、東京。人身事故で遅れる電車、人人人であふれかえる交差点、パソコンと蛍光灯に照らされたフロア。「生」と「性」の断絶は女ばかりでなく男にだってある。与えられた役割に心の被膜を厚くして耐えているものの、生活に疲れ仕事に疲れ不機嫌に黙り込んでゆく毎日。着ぐるみを着させられているように居心地の悪い身体。そうした世界へ言葉の爆弾を仕掛けながら柴田千晶は進んでゆく。
全人類を罵倒し赤き毛皮行く 柴田千晶
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