2009-10-25

興梠隆「雲の抜きゆく」、山口優夢「つづきのやうに」を(ちょっと)読む 上田信治

2009角川俳句賞候補作
興梠隆
雲の抜きゆく山口優夢つづきのやうに(ちょっと)読む 

……上田信治



興梠隆「雲の抜きゆく」50句

俳句のために、わざわざ「どこか」へ行ったりということが、少なそうな俳句と思った。

「どこか」というのは、自然の中だったり、歳時記の中だったり。ドラマチックでもないし、詩的な、あるいは歴史的な言語空間へも行かないし。つまり「日常」から、どこへも出かけて行かずに、書くこと。その「日常」は、たとえばこんなふうだ。

「毎日遠くへ行く仕事」
「食卓は椅子に囲まれ」
「タクシーの自動ドア」
「仮設便所を積んで去る」
「出口なき教習コース」

これら「日常」のモチーフは、おもしろくもおかしくもない「日常意識」をはみださず、水のような空気のような言葉で書かれている。特段おもしろがってもいないし、秋刀魚がうまくて嬉しいとかもないわけです。

それが、こういう俳句になる。

冬青空毎日遠くへ行く仕事    興梠隆
食卓は椅子に囲まれ鳥の恋    
蟇穴を出てタクシーの自動ドア  
春風や仮設便所を積んで去る   
出口なき教習コースタ立来    

なんか、こう「日常」あるいは「日常意識」が維持されつつ、そのまま、抽象度が上がっている感じ。日常を「異化」するのではなく、おもしろくもおかしくもない日常によりそうようにして、その底から「抒情」を浮かび上がらせる。

「タクシーの自動ドア」は、交通と関わりない低さの視点から見上げられた。人のいない「食卓」は、自分たちの生殖の時代の終わりを、遠く告げる声にとりかこまれている。

そうそう、この切ない感じは、この日常の底に、元からあったものですよね。

もう……この、ロマンチスト!(すいません、とても身近に感じている先輩なので、気安くなっています)

六月の碍子一個の光なり  興梠隆

「食卓」と並んで、今回の白眉と思った。「一個」を生かすために「六月」が選ばれている。

「週刊俳句2009/1/25号」興梠隆「立方体」10句 ≫読む



山口優夢「つづきのやうに」50句

50句を前にして嬉しいのは、ちょっとした作家論が書けること。この人は何をやりたいのだろう、と、しばし考えた。

よく分からなかった。たしか、本人も「ぼく、そういうのないんです」と言っていた。そこで、とりあえず、自分にとってよく分かる句を書き抜いて、句に聞いてみることにした。

「君たちは、なにがやりたいのかね?」

目の中を目薬まはるさくらかな  山口優夢
材木は木よりあかるし春の風
公園の時計に映る春の雲
鍵束のごとく冷えたるすすきかな
もんしろてふ村は大きく暮れてゆく
踏切は夜も踏切沈丁花

「サービス」という言葉が返ってきた。なるほど。

これらの句に見られる、向日性や、言い回しのうまさには、ウラオモテというものがない。心からのおもてなし、という感がある。ありがとう、楽しみました。

黄金週間葉つぱのやうに暮らしけり 山口優夢
蔕につく水滴うまし冬いちご

でも、やっぱり、こういう「おもてなしとして、うまくいってるの、これ?」みたいな句もあるから、おもしろいんだと思う。

「葉つぱのやうに」って、どんな「やうに」だよ、って思うし。「蔕につく水滴うまし」吸ってろ!って思う。上に掲げた句のように、よくできてはいないんだろうけど、こういうのを混ぜてくる人のほうが、友人としては信用できるっていう気がする(すいません、とても身近に感じている後輩(年だけ)なので、気安くなっています)。

火葬場に絨毯があり窓があり  山口優夢

主人公は、泣いてはいない。ニュートラル。

絨緞と窓しかないかのように書かれて、ここには、ぺらっぺらの具体性しかないのに、抽象の味わいがある。火葬場つまりお釜が主役のスペースだから、この空間は、標本のように実在感がないんだろう。佳句。

「週刊俳句2008/8/10号」山口優夢「家」≫読む

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