〔週刊俳句10月の俳句を読む〕
神野紗希
本気の奇想
林檎タルト映画は悪の勝つてゐる 酒井俊祐
スパイダーマンやスターウォーズといった、ハリウッド映画みたいだ。林檎タルトの他愛のなさが、深刻な悪を描く映画よりは、さわやかに悪が駆除されるアクション映画を思わせるからだろうか。それとも、「てゐる」の現在進行形(今のところはね、というポーズ)が、ここからは分からないよ、という(善の勝つ)可能性を示しているからか。
さくさくと林檎タルトを食べる作者は、特にどちらに勝ってほしいわけでもない(映画に感情移入してない風だから)。かといって、ヒールに、斜に構えているわけでもない(林檎タルトだから)。そんな、作者と映画との新しい距離感が、妙にリアルで好きだった。
血溜りに削いで鮫の尾・鮫の鰭 菊田一平
鳴き交はす海鴎に抛りし鮫の腸 〃
鮫漁の連作10句の中でも、特に躍動感があった二句をひいた。一句目の「削いで」、二句目の「抛りし」の動詞が、どちらも丁寧に選り出されている。「鮫の尾・鮫の鰭」は、句のリズムがいいので、そのリズムのよさから、コンスタントに尾と鰭を取り除いていく漁師の手際のよさがうかがえるし、二句目は、「鳴き交はす」に、海鴎の高揚や集まってきている数が読み取れるのが面白い。
情報量の多い現場(=たとえば今回の鮫漁)をデータ処理するときには、容量を増やしたり(=連作)、処理の精度を上げたり(=動詞の選択にみられるような措辞のたしかさ)するのがひとつの有効な対応なのだろう。
名案はときを選ばず烏瓜 太田うさぎ
ノートを広げて思慮しているときに訪れる名案ならば、すぐに書き写すことができるのだが、そんなに都合よくはいかない。ランチをしていたり、すぐ降りなきゃいけない電車の中だったり、トイレにいたり、山の中だったり、まさに「名案はときを選ばず」なのである。思いついてしまった以上は、そちらに思いが偏るので、現在おこなっていることへの集中力が欠けてしまう。結果、名案が思いついたことは嬉しいのだが、場面を選ばずにやってきてしまうことには、苦々しい思いもなくはない。烏瓜だから、この句の場合、屋外だろうか。ぱっと目に付く朱色が、名案が訪れたときの驚きの気分を代弁してくれている。
射的屋に鸚鵡の飼はれゐる晩夏 正木ゆう子
射的屋はレトロで、鸚鵡も、最近ではほとんど見ない。どちらも、過ぎ去った時間に生きているものというイメージがある。晩夏の光の中、感傷的になっている心に、置き去りにされていくものたちの存在が、ふと際立って感じられた、そんな句だろうか。懐かしくて、すこし痛ましい風景だ。
といっても、私は、こんな景色を一度も見たことがない。それでも、この句を、レトロな風合いがあると思うだけでなく、私自身「ああ、懐かしい」と感じることができるのは、「晩夏」という季語が、それ自体、懐かしさを含むものだからだろうか。それとも、鸚鵡という生き物が、私の中にいるたくさんの面のどれかひとつを映しだす鏡となっているから、鸚鵡の中に私を見るとき、どこか懐かしいと思うのだろうか。
鶏頭に視線を載せてゐたりけり 正木ゆう子
鶏頭という花の、あのごわごわとした分厚い質感をいうために「載せ」という動詞を選び出したところが、句の眼目だろう。視線というものが、まるでひとつのモノのように扱われているのが面白い。そもそも、視線を鶏頭に載せてしまうと、鶏頭を直視したことにはならないのだが、そのちょっとズレた視線というのも、鶏頭を見るときの、なぜかあの花を凝視をしたくない気分と、ぴったり来る。
秋風のニスの匂ひを花かとも 正木ゆう子
色なき秋風に乗って流れてくる、鼻につんと来る刺激臭。「ニス」と「花」とを並べることで、ニスのきつい匂いの中にある華やかさと、花の香の中にある鋭さが、互いに引き出されている。
正木さんの句は、どれも、奇想がありながら、「どや顔」をしない。発想を「すごいやろ」と自慢されたり、「てへっ」と照れられたりしたら、私なんかちょっと興ざめしてしまうけれど、正木さんの場合、おおまじめで奇想をやっている。その本気を目の当たりにするたび、私は読者として、本気で句に向かいたくなる。
■後閑達雄 コスモス 10句 ≫読む
■酒井俊祐 衛生検査 10句 ≫読む
■菊田一平 盆の波 10句 ≫読む
■中村与謝男 熊野行 10句 ≫読む
■正木ゆう子 無題 10句 ≫読む
■太田うさぎ 泥棒 ピーターとオードリー 20句 ≫読む
2009-11-08
〔週俳10月の俳句を読む〕神野紗希 本気の奇想
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