成分表32 正規分布
上田信治
初出:『里』2008年7月号
人間集団において、いろいろの能力や特性が正規分布していることを、想像してみる。正規分布とは、偏差値のグラフでおなじみの、真ん中の山が高くて両端の低い、釣り鐘型のあれである。
人の身長は、正規分布する。平均的な身長の人の数が多く、平均的で「ない」身長の人は数が少ない。けがや遺伝的特異性を勘定に入れても、身長20センチとか10メートルの人はいないので、そのグラフは生物的条件の範囲内で、ベルカーブを描く。
歌の上手さのような数値化できない「能力」も、きっと正規分布しているはずだ。普通の人がたくさんと、ごく上手い人とごく下手な人が少数ずついるであろうことは、容易に想像できるから。
ある数値が集団内で正規分布しているかどうかは、実際に統計を取って調べてみないと分からない。たとえば貯金額のような限界なく増えうる数値は正規分布しない。
同情心や意志力のような、その人の人格に属する「能力」はどうか。それは通帳のゼロの数のように無限に増やせるのか。いや、むしろ、そういう、人間の「持ち分」のような能力は、人の集団において、正規分布のようなかたちで「分け持たれている」のではないか。
つまり普通の人がたくさん。ごく優れた人とごく劣った人が少数ずつ。
そう考えると、人を殺したり犬を蹴ったりする人の存在を、理解しやすくなる。それはある種の能力の不足であり、同情心や感情移入の能力が著しく「劣る」人が、正規分布のグラフの端のほうに少数いることは、人間の多様性のあらわれであり、しかたがないことなのだ。
そして、正規分布グラフの反対側には、それらどうしようもない人たちと「同じくらい」どうしようもなく素晴らしい人たちが、可能性として存在する。
あゝ小春我等涎し涙して 渡辺白泉
と、それは一つのタハゴトである。人の心的可能性は、下方に無限にひろがり、高みにおいては頭打ちなのかもしれない。あるいは人の心には、ただおかれた状況の反映があるだけで、能力の優劣など存在しないのかもしれない。
ただし、われわれの想像力は、自分より心的に劣った人についてはありありと働き、我がことのように理解できるのに、自分より心的に優れた人については、まったく想像が及ばず、感情移入できない。そういうふうにできている。
この世に、どれほど感じやすい心があるか。そんなことは、われわれの誰にも分からないのだ。
憲兵の前で滑つて転んぢやつた 渡辺白泉
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