2009-12-20

〔新撰21より〕谷雄介の一句 さいばら天気

〔新撰21より〕谷雄介の一句
含羞と屈託の果てに ……さいばら天気


冷蔵庫のことを、かつて、セクシャルな対象、それも両性具有的な官能として捉えたことがある。

変態!と罵る声が聞こえそうだが、残念ながら実際に欲情したわけではない(つくづく凡人です)。倒錯を気取った悪戯、というより、恥ずかしくもブンガク的な遊戯に過ぎない。真っ白で、角にアールの効いた古めかしい冷蔵庫を、「未来のイヴ」とばかりに愛人格化するという想念を自分でおもしろがった期間は、ただし、一瞬で去った。

何かを思うということは、私の場合、ほんと、長続きしない。きれぎれの想念の思い出、というか、ぜんぶ次から次へと忘れ去りつつ、きょうのごはんを食べている、という感じだ。

けれども、一度、アタマの中に短期間ではあってもとどまった想念は、なんらかの残滓を残すもののようで、何かのきっかけで、かつての「思い」が蘇ることがある。「思い」はかたちがないものなのに、まるでかたちをもつものであるかのように、再現されるのだ。

  少年のやうな少女と冷蔵庫  谷 雄介

この句が醸成する空気は、倒錯的でも変態でもない。むしろ爽やか、かもしれない。けれども、なぜか、この「冷蔵庫」は、なんだか、なまめかしくもある。閉まっているドアが、やがて開く。その当然のことにさえドキドキする。

で、この句がどうなのかというと、句について、なにかうまく言うことなんて諦めているので、思いきってバカなことが言えるのだが、この句は、なんというか、その、「とても白い」のだ。

その白さは、前衛俳句を赤ん坊にしたかのような白さであり、あるいは、まだこれからいろいろなおもしろいこと・おもしろくないことを経験していくだろうという白さ、さらには、俳句という形式が目論むいっさいの効果など、シリカゲルのように気化してしまったような白さ。

ふだん「少年」「少女」の語が俳句に入っているだけで拒絶反応を示してしまう私にしてはめずらしく、拒絶どころか、脳味噌の深いところに染み込んでくる句。ああ、なんだかとても白い。

ところで、小論(飯田哲弘)には、こうある。

彼の俳句はそんな鬱屈した都会的諦観を土壌とし、しかしどこか捨てきれぬ優等生の残り香とリアルな堆肥臭との奇妙な混沌である。
みごとに約言された谷雄介俳句の全貌。100句を通して読むと、この卓抜な把握がかなりよく響き、冷蔵庫にまつわる私の駄文は、場違いな感じがする。これはいったいどういうことだろう。

俳句作者たる谷雄介は、俳句らしい俳句をやりたいのか、俳句らしくない俳句をやりたいのか、判然としないところがある。的が見えてこない。当たるにしろ外れるにしろ、ふつう、的があるはずなのに、それがいまひとつ見えない。

それは表現行為への含羞であり、もっといえば人としての屈託のせいだ。彼の屈託を、私個人は愛するが、世間は、俳句世間は、愛してくれないかもしれない。「それも魅力だけど、成功には邪魔よ」てな調子で。

おそらく、つまり、こういうことなのだ。屈託から生まれた99句。そして、残る一句は、役にも立たない屈託も、備えてしまった以上しかたがないじゃないかといった類の「白さ」を備えた一句。100句のなかに、ぽっかりと何かを塗り残したように白く。

この冷蔵庫、あけると、きっと空っぽ、かなしくも叙情的に明るく空っぽなのだ。


『新撰21 21世紀に出現した21人の新人たち』
筑紫磐井・対馬康子・高山れおな(編)・邑書林

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