2010-01-17

〔週俳12月の俳句を読む〕田島健一 俳句は誰に向けて書かれるのか

〔週俳12月の俳句を読む〕
田島健一
俳句は誰に向けて書かれるのか



悴みてかくも小さく心かな  長谷川櫂

俳句は、五七五というたった十七文字、というそれ以上でもそれ以下でもない限られた「意味」なのか。
それとも、五七五という形式以上の、見えない「意味」を付与された何かなのか。

そのような問いに対する答えがあるとすれば、それは…
「俳句は五七五という、たったそれだけのものであり、かつ、それ以上のものである」
…ということになるだろう。

この矛盾した二つの要素が共時的に存在することこそが、俳句の不可能性と呼ぶべきであるのだが、まさにそれこそが俳句の表現を無限に拡張させる唯一の可能性であると言っても過言ではないかも知れない。

それは例えば人間にとっての「口」という器官が、生物が生きるためにモノを食ったり唾を吐いたりする機能をもつと同時に、ことばを発したり、歌を唄ったりするような、神秘的な機能を併せ持つことと似ている。

  冬と云ふ口笛を吹くやうにフユ  川崎展宏

という川崎展宏氏の句は、そのような神秘的な「口」の生み出す「音」と「ことば」の境界を描いているようで、読んでこころの透き通るような佳句である。

揚句は、その川崎展宏氏の死へ捧げた、長谷川櫂氏の「追悼」10句のなかの1句である。

ところで、言うまでもなく俳句には「作品」を間に置いて「作者」と「読者」という関係が生成されるのだが、では、その「作品」は「作者」から「読者」に向けて(あるいは「読者」のために)書かれている、と言うことができるだろうか。

俳句は誰に向けて書かれるのか。

俳句は「読者」に向けられて作られるべきで、だからこそ「読者」に理解可能な過不足のない「意味」を成していなければならない、のだろうか。

長谷川櫂氏の「追悼」という作品は、誰に向けて書かれいるのか。

もちろん、作品は読者がいることを想定して書かれているには違いない。また、その作品の評価を最終的には読者に委ねなければならないことも確かである。けれども、作品が読者に「向けて」書かれているのか、と問われた場合、作品の終着点がかならずしも作品の目的地ではない、という可能性について考えるべきだろう。

つまり、もし仮に氏の作品が、週刊俳句の「読者」に向けて作られたと考えると、「川崎展宏氏の死」は作品の「主題」としてのみ存在することになり、そのような「主題」に対する作者の「客観的」な立ち位置を表わしはするものの、「読者」のもとへとどく作品は「主題」そのもの、「川崎展宏氏の死」という事実そのものにすぎない。

それは、冒頭に書いたように俳句が「五七五というたった十七文字、というそれ以上でもそれ以下でもない限られた「意味」」である、ということに他ならないのであるが、既に述べたように、俳句が同時に「五七五という形式以上の、見えない「意味」を付与された何か」なのだとすれば、作品が「読者」のもとへとどく以前に、その「意味」を仲介する「第三者」がいるはずである。

その「第三者」こそが、長谷川櫂氏の作品に「追悼」としての「意味」を付与するのである。

つまり、氏の作品における「第三者」とは故川崎展宏氏であり、氏の作品は川崎展宏氏(と、その死)に「向けて」作られているのである。

ここで言う「第三者」=「死者」こそが<他者>である。

「作者」と「読者」の間において「意味」を仲介する<他者>に対して「作品」は書かれるのだ。
(付け加えるならば、ここにおいて<他者>は主題として「書かれ」と同時に「呼びかけられる」のだ)

順序を間違えてはならない。(というか、ここは非常に順序を間違えやすいところなのだが)

作品のタイトル(「追悼」)や、前書き(「川崎展宏氏、死去」)があるから「追悼」句なのではない。その作品が「死者」へ向けて作られている、ということが「追悼」作品であることに先立つのである。

これは、「追悼」作品という個別の事情に特化したことを述べているのではない。

おそらくこれは、俳句そのものが持つ基本的な構造なのだ。

私たち「読者」は、「作者」から<他者>へ向けられた「意味」を外側から慮るしかない。

ここで、あたかも「作者」から<他者>へ「意味」という実体をやりとりしているように書いたが、そもそも、そのように「作者」から<他者>へ向けられていること自体が「意味」なのである。
そのような「身振り」そのものが、「ことば」に「意味」を付与するのだ。

そのような点では、「作者」と<他者>との関係性に対して「読者」は常に遅れている。

長谷川櫂氏と川崎展宏氏の関係性を「知る由もない」ということが、「追悼」という作品についての「創造力」を支えていて、「作者」(長谷川櫂氏)の「読むべきものを読む」という主体性に巻き込まれつつ、「読者」としての私たちは、その空間を「読まされて」しまうのである。


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