〔新撰21の一句〕越智友亮の一句
千年と瞬間と嗅覚と味覚と……小川春休
古墳から森のにおいやコカコーラ 越智友亮
古墳が森の匂いとなるまでの時間を思う。
出来立ての古墳は(出来立てなら「古」は相応しくないが)、そこに葬られる権力者の権勢を反映した、膨大な土である。そこには、土の他には幾らかの石材・木材があるばかりで、まだ緑はない。当然その匂いも、現在とは違ったものだったろう。
そうした人工の築造物が、千年以上の時間の経過の中で、草が生え、木が生え、鳥たちが生まれては死に、森の匂いを発し、森そのもののようになっていく。古墳からの森の匂いは、目の前の景と、その歴史的背景とを、生き生きと、端的に嗅覚に集約している。
そこにもう一つの人工物、コカコーラが現れる。この、暗褐色にして発泡性の、スカッとさわやかな飲み物は、森の匂いを発する古墳と対するに、極めて「現在」だ。この二つの対照的なものが、一人の人間の嗅覚と味覚とに混然と存在しているのである。
古墳の経てきた千年以上の時間と現在の瞬間とを嗅覚と味覚とで感じながら、この句の主体は、そのどちらに肩入れするでもなく、「そういうものだ」とそのどちらをも受け入れているように感じられる。その風通しの良さが、私にはとても魅力的に映った。
作者のプロフィールを見ると、「平成三年一月十六日広島市生まれ」とある。「昭和五十一年一月十六日広島市生まれ」の私としては、否応も無く親近感を持った。
草の実や女子とふつうに話せない
この句がもし、自画像的な句だとしたら――さらにより一層、この作者に親近感を抱かざるを得ない。
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2010-01-31
〔新撰21の一句〕越智友亮の一句 小川春休
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