2010-01-17

〔新撰21の一句〕谷雄介の一句 橋本直 

〔新撰21の一句〕谷雄介の一句
君は、3D地図が読めるか ……橋本 直 


秋の川中部地方を流れけり  谷 雄介

もう結構前の話だが、カシミール3Dという地図をCGで立体視するフリーウェアソフトがPC専門誌やアウトドア専門誌で取りあげられていたことがあった。3D表示はいまやグーグルなどでもざっくりしたものなら無料かつ地球規模でできてしまうが、初めて見たときは画期的でめちゃめちゃ面白そうだった。しかし、上高地から見た穂高連峰を図示する程度の雑誌のおまけですら、自分のローエンドPCではマシンパワーが全く足りず、起動後すこし見ているとフリーズする悲哀を味わう羽目となり、その後いかほど遊べるソフトかを試すこともなく時代は変わった。

さて、「中部地方」のことである。言わずと知れた日本の屋根を含む広大(あくまで相対的ですけど)な地域だから、秋ともなれば絵に描いたような深山幽谷だらけだろう。しかし随分大胆にざっくりと言ってくれたものである。ひょっとして作者は、グーグルアースが宇宙からズームアップしていくように、あるいは3D化して嘗めるようにスライド表示するように、「中部地方」を脳内で可視化できちゃう人なのではないかなんておもってしまう。

ま、たとえば作者がそのような3D地図を読める能力の人であったにせよ、そこは読者は関係がない。人は今、普通にこの「チューブチホウ」をどのように読めるのであろう。実はこの句を読んでいて、正岡子規と内藤鳴雪のちょっとした論争の記事「地図的観念と絵画的観念」(「日本」明治27年8月6、8日)を思い出していた。蕪村の

春の水山なき国を流れけり

の解釈をめぐって二人に相違が生じた時の話である。

子規は相違の原因を、詠まれた景に対する二人の読み方が、鳴雪が「地図的観念」により、子規が「絵画的観念」によった差であると説明している。二人の優劣は特につけることなく立場の差だと鳴雪に気を遣っているものの、子規はこの蕪村句に対し批判的であり、「この句の意単に目前の有形物を詠ずるに非ずして却て無形の理屈を包含するが如く従つて人の感情を起こさしむる事少し(中略)『山なき国』とは文学的客観の景象に非ずして地理学的主観の抽象に似たるなり」という。

「山なき国」が「地理学的主観の抽象」に似ているとはわかりにくい言い回しだが、要は地形の恣意的断定表現を使って、「無形の理屈」(先行する古典に通じる趣というところか)をなんとなく読者に良い感じに匂わせようという意図を持つ、くらいの意味だろう。子規はそれでは「人の感情を起こさしむる事少し」だと言い、「文学的客観の景象」(文学の表現に適した読者に具体的に伝わる景色、くらいの意か)ではないとして斥けている。他にも「山なき国」という語は連想要素が多すぎて、いわゆる景がうかばない句であると難じてもいる。なるほどそれはそうかもしれない。

作者谷氏に取材したわけではないが、掲句は句の構成から言って蕪村の句とよく似ていると言えば実によく似ており、具体的地域名がきている点で子規の批判をふまえているとも言えよう。この論争を知っていて意識的にあえて作句したのではないかと勝手に想像する。ねらい所は、子規の論の限界の見定めやら、今後いかほど可能性があるかやらの検証実験である。地名には、今はどれほどの「文学」的効果がありうるのだろう。さらに、地名に於ける実景の連想の可能か不可能かのボーダーはどこにあるのだろうか。

「秋の川」に「中部地方」とくれば、何気なく読み飛ばした読者は、なんとなく山国を連想するのではないだろうかと想像するが、日本を代表する大河が何本も海へ流れ出てもいる地域である。具体的景を色々浮かべることは可能で「人の感情を起こさしむる事」少なくないのだが、子規の主張にならすと、その総体を思うには結びつきが中途半端で広すぎるだろう。ではそれで作品として破綻するのかといえば、個々人の経験に回収されてしまうからそうでもない。その辺り、読み手を試すような、けっこう暴力的な用語でありながら、面白いところをついている。

子規は〈春の水武蔵の国に山もなし〉という例句をあげて、「『武蔵国』と云ふ一語を除きては抽象の語とならず。即ち『山無し』と云ふ事は抽象的の性質と 為らずして『眼中に山を見ず』と云ふ見る時の働きとなるなり。」と述べ、蕪村が使ったなんとなく風情を匂わす手より、具体的景色にきちんと辻褄を合わせる方が優れていると見ている。この年の春すでに中村不折と知り合っている子規は、どうやら既に具象表現の文学性を強く信じているようであり、それは時代というものであろう。

一方、谷氏の句は、蕪村の「春の水」の風情を「秋の川」に置き換え、「山なき国」を、真反対の(ある意味ベタな)もっとも山の多い地域を含みながらも、「中部地方」というおそらくは官製の、「生産緑地」よりは具象性がありそうだけれども「黒部ダム」などよりはちょっと劣りそうな、人間の視野を超えたずいぶん広域の地理用語をあえて選んで使用している。それは子規の主張を実践に入れつつ、むしろ鳴雪の側に立つものだともいえる。

そして、これは視野にとらえた映像のリアルが、所詮脳がみせている幻に過ぎないことを知っている時代の、私たちの映像経験と言語と身体の関係性の問題でもある。作者はこの句に、PCにおけるグーグルアースやら何やらが日常にあり、さらには3Dテレビを一般家庭に普及させようかというご時世の読者の脳内図像喚起力の爆発的な可能性へ、確信犯的にちょっとした先行投資を仕込んでいるのではなかろうか。

その方法は、これから先に脳が育つ連中に、今より面白がられるかもしれない。




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