2010-01-31

〔新撰21の一句〕中本真人の一句 久留島 元

〔新撰21の一句〕中本真人の一句
俳人殺すにゃ刃物はいらぬ……久留島 元 


鳥の巣と見えぬところに鳥が入る  中本真人

標題、答えは、「それがどうした?」と言えばいい、のだそうだ。

寡聞にして出典を知らないがうまいことを言う。俳人、というのが俳句作家なのか俳諧宗匠なのか知らないが、とかく名句といわれる作品は「それがどうした?」と返したくなるような、危ういおかしさを湛えていることが多い。

中本氏の句は実に見事な「それがどうした?」俳句である。心の中で「それがどうした?」を繰り返しながら読み進めていくと笑いがこみ上げてくる。まことに俳句は小さな文芸である。

何をもったいぶって十七音に仕立てているのか、その句で何が言いたいのか、まったくわからない。わからないというより、たぶんもとからそんなもの はない。作者はただ詠んでいるだけだ。読者がおもしろがってくれるかどうか。俳句を作るのが「読者」なのだとすれば、これほど読者の感性に委ねられた句群 はない。お笑いで言うところの、ツッコミ待ち?

掲句。
句意は明瞭。

視点は、おそらく樹上。鳥が一羽、枝の鬱蒼としたあたりに入っていって、特に動く様子もなく出てくる気配もなく、さてあんなところに巣があるよう にも見えないけどなぁ、と、長々説明する必要もないばかばかしいほど平明な句である。たとえ俳句を読み慣れていない人でも、一読、枝葉の中に消えていく小 鳥の姿が目に浮かぶだろう。
問題は、それを楽しめるかどうか、なのだ。

俳句に親しんでいる人ならば掲句が、
 
鳥の巣に鳥の入ってゆくところ  波多野爽波

の変奏であることに気づくかもしれない。

ただ、ふたつの句には決定的な違いがある。爽波の句が、文字通り見たものを見たままに、するりと詠んだ(少なくともそう見える)のに対し、実は中本句では、「鳥の巣」は作者の目には写っておらず、句のなかでは存在していないのである。

しかし、それでもこの句の季語は、と問われれば「鳥の巣」となる。

実際には存在しない「鳥の巣」だが、目の前の実景から「鳥の巣」が想起されることによって季(三春)が保証されているのだ。

「切れ」も、「取り合わせ」もない、いたって平易な、散文的一行詩。
そこから読者が得るのは、樹上に騒ぐ小鳥から「鳥の巣」(三春)を感得した作者の姿だけ。

「それがどうした?」と句を殺してしまうのも一手。

作者の堂々とした詠みぶりを楽しむも、またよし。




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