〔新撰21の一句〕村上鞆彦の一句
ひとかけらの誘惑 ……青山茂根
鴨撃つて揺るる日輪水にあり 村上鞆彦
先日の「新選21竟宴」のシンポジウムで、どういった文脈の話だったか、平安時代の王朝の和歌文学も元の人の引用、題詠であったという話題が出 ていた。
その本論からはかなりずれてしまう、というよりそこから派生したささいなことなのだが、かの時代の題詠と、現代の我々の俳句表現をめぐる状況とを 同等に論じるのは、少し無理があるのではないか、と感じた。
その当時の和歌が題詠で詠まれたものであったとしても、例えば現在の我々のうちどれだけのものが、三週間も徒歩で山道を旅したことがあるだろ うか。その旅路に、どれほどの鳥を、動物を見、その声を耳にし、道中の気候の移ろい、木々や水のざわめきの中に身を置くことが、究極のフィールドワークそ のものである熊野詣などに出かけていた、当時の歌人たちは、古典の言葉からだけの発想で歌を詠んでいたと言えるのだろうか。創作の契機は題詠といえども、 それだけの吟行(他の場所へ出かけるのも、同様に現在より困難な道であったはず)をこなした上で、本歌にはない新たな情趣を得た作者が、その本歌に使用さ れた言葉を再構築しつつ全く新しい別の歌を作り上げたのでは。
また、その当時の歌詠みたち公家の館が、どれほど豪奢なものであったとしても、所詮は開口部 の多い(夏を旨とした)木造の寝殿造り、西欧の石造りを真似た現在の我々のコンクリートとガラスに囲まれた住まいと比べれば、外気温・天候の変化に多大な 影響を受けていたことは想像がつく。その当時の照明設備の明るさでは、闇を常に間近にした人間の身体が、嗅覚・触覚・聴覚に優れていたことも思い起こされ る。
季語だ、自然だといいながら、私たちはかの時代の人々ほど、多くの本質的なものごとを知らない。結局は、字面のみを構成し直すに留まっているような 不安に、ときおり襲われるのは私だけか。
撃たれた鴨は、すでに視界からは消えている。
硝煙の中で、水に落ちた後だ。そこには、撃った人間と、撃たれた獲物を隔てる、水の塊、例えば湖が あるのみ。猟銃(散弾銃)を撃ったときの、我が身にくる反動と、水面に落ちた獲物が起した漣、遅れて音。鈍い冬の太陽を、その水鏡のゆがみで表出する。命 あるものを殺めてしまった、微かな罪の意識とともに。
村上鞆彦の句は、彼のその静謐な、善良そうな佇まい(私もあの場で初めてその姿を見て驚いた)とは相反するようだが、人の心に潜む負の意識を見 つめている。
本人がたびたび記しているように、その句は常に有季定型・客観写生で書かれながら、今そこからは失われたもの・求めても手の届かない景を描き 出す。何パーセントかの悪意で、この世界は出来ているということを、本能的に悟ってしまっている句なのだ。
どちらかというと、「悪役商会」として俳句世間 から認識されているであろう同人誌(違っている関係者の方はすみません)に片足突っ込んでいる私としては、同じ匂いの人間に会ってしまった気がして、ひと たびその表層の下に気づいてしまうと、その端正な見かけをした俳句たちに、ずぶずぶと引きこまれてしまいそうで、一方でこちらの世界に連れ込みたくなる衝動もあって我ながら危うい(いえ、そんなことしませんてば)。
既に知られていた星雲が、実はブラックホールを隠し持っていたとは、その大きくなりつつある引力に呑み込まれぬよう常に観測を怠らないようにしなくては。
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2010-01-10
〔新撰21の一句〕村上鞆彦の一句 青山茂根
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