〔新撰21の一句〕中村安伸の一句
〈歴史〉のマトリョーシカ……松尾清隆
任天堂の歌留多で倒す恋敵 中村安伸
一句のなかに三種類の〈歴史〉が詠み込まれているのが面白い。
1.「歌留多」に象徴される和歌の歴史
2.「任天堂」の社史
3.「恋敵」と争っている作中主体の個人史
である。
1.の「歌留多」には犬棒カルタ、花ガルタ(花札)などもあるが、ここでは歌ガルタと読むのが自然。そこには現代俳句へと通じる和歌の大きな流れを象徴するという意味が込められている。
2.は「任天堂の歌留多」と言うことで、今や世界企業となった任天堂(明治22年創業)という会社の来歴をもイメージさせるということ。テレビゲームの登場以前に子供時代を過ごした読み手には自明のことかも知れないが、今日の状況を鑑みておかしみを感じることはできると思う。ちなみに、任天堂の百人一首カルタは現在も販売されている。Amazonで検索すると「製品概要・仕様」の欄に「電池:不要」と書いてあったりするのも面白い。
3.は作中主体(普通に読めば作者)の極めて個人的なライフヒストリーの一場面。
これら三つの〈歴史〉は1.から順に長く、長さで大・中・小に分類できる。現代俳人の仕事が和歌の伝統の末端にあるとすれば、これらは入れ子構造になっていると言えよう。
入れ子構造と言っても、これらはマトリョーシカのようにそっくり同じ形をしているわけではない。タイムライン上では重なり合い、互いに影響関係にありながらも、それぞれが独自に進展し、変形を続けているのである。
マトリョーシカを開けたときに外側のマトリョーシカとは違う何かが入っている、というのはなんだか面白そうだ。ひょっとすると、内側のマトリョーシカが変形することによって外側の大きなマトリョーシカ(和歌の歴史)の見た目が変わってくるということもあるかも知れない。
「変形」と書いたが、かならずしも何か大きな変革を期待しているというわけでもない。マトリョーシカの中身はかならずしも未知のものである必要はなく、やはりマトリョーシカであってもいい。
そこで問題になってくるのは仕事の〈質〉である。内外マトリョーシカの相関関係において、全体の価値を決定するのは個々の仕事の〈質〉である。実際に商品として売られているマトリョーシカを見てみると、小型のものの絵付が粗雑であったりすることが多々あり、こうなると外側のマトリョーシカと合わせた全体の価値が下がってしまうことになる。
昨年12月23日におこなわれた「新撰21竟宴」の第二部で、山口優夢氏が「形式を使いこなすというのは、俳句をするうえでの前提。目的ではない。」と発言していたが、これはきっと中村氏にも共通の前提だろう。一定の〈質〉を確保したうえで、少しずつでも、何か俳句そのものの価値まで高まるような新味を出していく。そんな着実な仕事を期待できる一人が中村安伸である。
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2010-01-24
〔新撰21の一句〕中村安伸の一句 松尾清隆
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