2010-02-14

新撰21の20人を読む 第3回 世界を愛そうとする女と自分以前を粛清しようとする男

新撰21の20人を読む 第3回

世界を愛そうとする女と自分以前を粛清しようとする男


山口優夢




 

焼鳥の我は我はと淋しかり

彼女が描くのは、徹頭徹尾きめ細やかな心配りをもって配された言葉によって構成された、美しい世界である。彼女が描くと、日常のなんでもない景色もひとつの抽象画のように洗練された色遣いで鮮やかに照らし出される。

行く春の聞くは醬油のありどころ

少女みな紺の水着を絞りけり

日常の何でもない景色を俳句にしようという場合、そこには少なくとも二つのハードルがある。第一に、こんな当たり前のなんでもないことを俳句にしようと思い立つかどうか、ということ。そして第二に、その当たり前のことをどのように書くか、ということ。醬油がどこにあるか聞く、ということを俳句に詠もうと思う俳人は、どのくらいいるかは分からないが、いないこともないだろう。殊にトリビアルなことを詠むことがはやりのようになっている現代では、びっくりするほどのトリビアルな俳句、というわけではない。

しかし、「聞くは醬油のありどころ」などという流麗な言葉でそれを描ける作家は、そうそういないのではないか。「行く春の」の「の」、「聞くは」の「は」と、助詞の使い方に意を凝らすことで途中に切れを入れず、下五を全部ひらがなの「ありどころ」という鷹揚な名詞でとめる。この書き方によって、家庭の食卓のゆったりとした幸福感が表現される。このように意匠を凝らすことによって生まれた彼女の句の世界からは、しかし、その家庭の具体的な様子―たとえば、父が新聞を読んでいて、母は忙しく立ち回っていて、姉は食パンを食べながらケータイをチェックする、というような―が、立ち上がってくるわけではない。彼女自身のゆったりした気分が「行く春」という季節とクロスするばかりで、他の一切の情報は捨象される。つまり、彼女の句は句の世界の外側に世界を作らず、彼女の句の描く世界だけで十分に完結する。

「少女みな」の句は(少なくとも俳句の世界においては)人口に膾炙したと言っていい有名句であるが、この句の言葉遣いにも一分の隙もない。「少女」というキャッチーな単語で滑り出した句は、「みな」と続くことで少女が大勢いる情景を作り、「紺の水着」と、水着を着ていることとその色を特定したに過ぎないのに彼女たちがどこのプールで泳いでいる何歳から何歳くらいの少女なのか、という確実なイメージを読者に与え、とどめの「絞りけり」で俳句的な少しずらした具体的描写と美的イメージの確立を成功させる。この句を読むと、何人もの思春期を迎えた少女たちが少し薄暗い更衣室かどこかで水着を絞っている、その情景だけで読者を満足させる美しさが完成されていることが分かる。

この句に対して、示された情景に何らかの寓意を読みとるような鑑賞や、少女たちの内面に迫るような鑑賞、この更衣室の匂い、明るさ、細かい景色を徹底的に描き込もうとする鑑賞は、おそらく句の足を引っ張りこそすれ、引き立てることにはならないであろう。なぜなら、この句がそれら句の外部へ向かおうという志向を全く感じさせないからだ。少女たちの顔や声さえ思い浮かべない方がいい。

もっと言えば、この句に出てくる「少女」は非常によく完成された抽象なのである。

ある一句がその言葉の世界の中で完結し、外側を志向せずに抽象へ至る、というのは、彼女の句における決定的な性質の一つではないか。

青に触れ紫に触れ日記買ふ

みつちりと合挽肉や春の海


首都と呼ばるる光のうちを十薬は


催馬楽に岸現れて桜かな


「青に触れ紫に触れ」という言い回しの無類の美しさは、「日記買ふ」という季語が持つイメージを更新するに十分ではないだろうか。こういう句を読むと、やはり彼女の句から出発して具体的なイメージを思い浮かべることは句にとってマイナスだと思う。売られている青い日記や紫の日記に触れてどれにしようか迷っている、と情景を描いてみた途端に、句の持つ玄妙な美しさは損なわれ、一切は日常の次元に還元されてしまう。「青に触れ紫に触れ」という言葉が発するイメージ、それらの色彩の奥ゆきを指先で味わい、自らの所有すべき「時間」に対する恍惚がゆっくりと体の中を流れる。もしもこの句が「赤に触れ橙に触れ」だったら、僕はさほど面白いとは思わなかったであろう。それは、「赤」「橙」というはっきりした色に対して、「青」「紫」のどこか曖昧で奥行きを感じさせる色彩が「日記買ふ」を恍惚とした行為に見せているという事情があるからであろう。

だから、二句目における「春の海」、三句目における「十薬」、四句目における「桜」、といったこれらの季語が、それぞれの句で具体的な景色を思い浮かべたとき一体どこにあるのか分からないということは、これらの句の弱点になるどころか、彼女の句作が要請する当然の帰結の一つなのであり、彼女の句の持つ特徴の一つとも言える。なにしろ、具体的な景色を思い浮かべることの中には、彼女の句の本質へ辿り着く手掛かりは全く用意されていないのだから。

僕は二句目の「合挽肉」の句の中七までを読むと、まず頭の中に合挽肉を作る銀色の大きな機械がゆっくりと合挽肉を押し出している様が頭に浮かぶ。下五の「春の海」に至ると、さきほどのイメージの残像が薄れてゆき、日差しのあたたかい春の海辺の様子へとグラデーションをかけながら情景が変わってゆく。その二つのイメージの間にある断絶をこそ、僕は楽しんでいるのだ。もしもこの句の取り合わせが比喩や寓意によって読み解けてしまったら、僕の中でこの句は死んでしまうことであろう。

「首都と呼ばるる光」と「催馬楽」に現れた「岸」。どちらの方がくっきりと現実感を伴った景色かと問われたときに、後者の方に軍配が上がるのが不思議だ。首都というかたくて大きなもの、そのイメージを柔らかな「光」一語に託してしまえる大胆さ、また、催馬楽から幻想を引き出し、「岸」という大きな、また、寓意に満ちた場所を出現させてしまえる手腕はほとんど脱帽というほかはない。このどちらも、やはり言葉によって組み上げられ、言葉によって発見された世界なのである。

逆光の汽船を夏と見しことも

晩夏のキネマ氏名をありつたけ流し


嗚呼夏のやうな飛行機水澄めり

彼女の中の夏のイメージが僕の中のそれと呼び合うのだろうか、これら夏の句に多く惹かれた。夏の光、夏の闇。そういったものを僕らはどうしようもなく捉えてしまうからだろうか。彼女の組み上げる輪郭のくっきりした世界は、強い光と濃い影に彩られた夏の美しさと残酷さによく響くのかもしれない。上記三句には、どれもため息をついてしまうくらい切なさが込められているようで、彼女の現在までの句の到達点の一つと、僕は信じて疑わない。

彼女は、言葉の組み立てにより美しく演じられた俳句を通じて、世界を、自分を取り巻く世界たちを、愛そうとしているのだ。世界は愛するに足るものであることを自らに示すために、彼女は自分の言葉をささげる。もともと世界を愛している人間には、そんな所作は必要ない。彼女が世界を愛するためには、完成された言葉の放つ抽象のイメージが必要だったということではないだろうか。そう考えれば、彼女がことさらに日常や歴史といった彼女の周りに犇めいている世界たちを、美しい言葉で捉えなおそうとしていたのはなぜか、納得できるようにも思うのだ。

しかし、世界に対峙する彼女のそういったやり方は、実は変化を迎えつつあるようだ。次に挙げる句は、100句の末尾に置かれた彼女の句集以後の句群にある句である。要するに、100句の中では最も新しく作られた句ということになる。

風はもう冷たくない乾いてもいない

雲流す仕掛に蝶が来ているよ 「仕掛」に「しかけ」とルビ

また嘘を君が笑って蛾が傷む 「傷む」に「いたむ」とルビ

彼女の句がその内部で完結していたのは、句から立ち上がるイメージが明瞭であり、それ以上に何かを補充しなければ読めないという性質のものではなかったから、と言えるだろうが、これらの句は、内部で完結せず、どれも破れ目を持っている。

「風はもう」の句が、前掲の「少女みな」や「青に触れ」の句と最も異なるところは、この句が、皮膚感覚を直接描くことのみに集中したことによって、句に書かれていない外側の世界が存在していることを読者に思い出させるところではないだろうか。逆に言えば、「少女みな」「青に触れ」の句では、読者はただ彼女の用意するイメージの立ち上がりを追いかけてゆくことでカタルシスを得ることができたが、「風はもう」の句ではそのような明瞭で印象的なイメージではないものが彼女の中で中心になっていることが感じられる。

これら近作は、句集からの再録句とは異なり、現代仮名使い、ルビの多用といった特徴を持っているが、そのような形式面での変化に呼応するように、句を投げかける相手の存在が、言葉遣いからも感じられるようになっている。「行く春の」の句のような美しく計算されつくした言葉の配置は、誰かへの呼びかけという性質をもつとは思えない。それに比べて「来ているよ」という言い回しは直截的に呼び掛けという形式を持っているし、「また嘘を」の句の混乱した言葉の配置も、書き言葉というより話し言葉に近い印象を与える。

また、描かれている世界自体も、言葉によって美しく構成されたものとはちょっと違う。「風はもう」の句など、春になった、という一言ですむことであるが、それを気張った言い方に落とし込むのではなく、もっと体温を感じられる凛々しげな話し言葉として作っている。「雲流す」が、挙げた三句の中ではもっとも言葉によって組み上げられた世界、という印象があるが、前掲句のように誰でもが美しいと納得する世界ではないし、美しいという言葉で切り取ることがふさわしいとも思えない。ふとした邂逅を慈しんでいる気分がある。「また嘘を」の句は彼女自身の混乱した世界、嘘がばれてしまったことで心の底から激しく動揺する彼女の様子が痛ましいほど伝わってくる。これほどまで彼女を動揺させる「君」とは一体どんな人物だろう、と想像したくなってくるところなどは、「少女みな」の句の「少女」が抽象であったということとはだいぶ異なる事態になっている。

冒頭に掲出した「焼鳥」の句は、句集からの再録句である。すなわち、今挙げた近作ではなく、「少女みな」「青に触れ」と同時期に作られたものだ。なるほど、確かに串に刺さった「焼鳥」のひとつひとつの肉塊の様子を「我は我はと淋しかり」と、それぞれが不快を与える生き物であるかのように描かれている様子は、言葉で組み上げた世界、という彼女の句集作成時期までの特徴を持っている。

しかし、この句の特殊性は、言葉で組み上げられた他の句とは異なり、愛すべき美しい世界を描いているわけではない、というところだ。むしろ、「我は我は」という言葉で描かれた小さな肉塊たちの気味悪さはどうであろうか。それは、この小さな肉塊一つ一つが意志をもって行動しているということの気味悪さであると同時に、それぞれがお互いに対しては聞く耳持たず自己主張してくる醜さも含まれているだろう。

日常を美しく書ける彼女が、句集以後では美しさよりももっと人間と関わってゆくことにベクトルを変えつつある。その中で「焼鳥の」の句のように不快さ、というか、生きることの淋しさをあらわに見せる作が出てきているということに、まだまだ続きそうな彼女の哀しみを予感してしまうのである。

作者は佐藤文香(1985-)



日を離ればなれの鳥や石室や 「石室」に「いわむろ」とルビ

彼の100句が、言語以前の世界を志向しようとしているらしいことは、なんとなく想像がついた。

孔雀大虐殺百科辞書以前

白地図へ蝶は顎を響らしゆく 「顎」に「あぎと」、「響らし」に「ならし」とルビ

「百科辞書」という人類の「知」の集合体が生まれてくる以前に行なわれた「孔雀大虐殺」。これが寓意として通じるのは、やはり「孔雀」の豪勢な美しさによるものであろう。そして人間がつけた地名が何も書かれていない「白地図」へ向かってゆく「蝶」はまるで野生に還ったかのように「顎を響らし」ている。…と、読みたいのだが、ただし、蝶には顎はない、という点はどうしても気になる(蝶の口は、一般的には花の蜜を吸いだすために長い管になっている)。もちろん作者の頭の中には、実際の蝶とはかなり異なるイメージの、もっと獰猛な動物としての蝶が描かれているのだろうが。

言語以前の世界を言語で構成しようとするならば、そのほとんどが普通に考えられている意味上の文脈を寸断することで成り立たすという方法を取ることになるのも納得はいく。

おぼろ世を空に象られて木々は 「空」に「うつ」とルビ

悪食を宝石泥棒が戦ぐ


前生の菊に括られては北よ


とおく来し青黴乾酪の斜立ちや 「青黴乾酪」に「ブルーチーズ」とルビ

意味の文脈が断絶したとき、何が表れるか。「木々」も「宝石泥棒」も「菊」も「青黴乾酪」も、元々それらが指し示していたはずの実体から無理矢理引き剥がされてしまっている。それは「木々」を描くなら「木々」らしさを、「青黴乾酪」を描くなら「青黴乾酪」らしさを志向する一般的な俳句の作り方とは完全に逆行するものであり、おそらく彼はそういう志向によって世界を塗り替えていこうとしているのだろうと僕には思えるが、しかしこのような試みによって現れる世界は、まだ新たな何かに届いていると言うよりも、引き裂かれ、破壊されつくした世界となっているように思う。彼は、自分の手で、自分以前から存在している言語世界を徹底的に破壊し、言語以前の世界に差し戻すことによって何か新しい世界を構築するよすがにしようとしているのではないか。今はまだ壊していることに徹しているのかもしれない。

天窓は病める カモメを遠くかぞえ

白骨の反りと冬虹と揺らげよ

みずうみを奏でる断頭台なれや

これらの句群は破滅や死を志向しているが、それは消極的に動きが鈍くなって死んでゆくのではなく、積極的にそういう方向へ向かってゆくための儀式が行なわれるようだ。「病める」「白骨」「断頭台」といった言葉を用いていながら、どの句も光が散乱している。そしてどの句においても誰も何もしゃべろうとはしていない。気味が悪いほどしずかな世界。

冒頭に掲出した句も、光にあふれつつ言語が介在し得ないような世界観を体現していよう。「日を離ればなれの鳥」というのは、鳥の群れを描写していながら生きている者らの絶対的な孤独を映し出す。「石室」によって示された死へ向かって飛ぶ鳥たち。言語がきりきりと壊され立ちつくしているような他の句に比べて、この句に示された優しく強い眼差しをこそ、僕はむしろ言語を用いて言語以前を描く彼の世界を体現するものとして尊びたいと思った。

作者は九堂夜想(1970-)



佐藤の句を「内側のみで完結する」句と言ってしまえるとしたら、九堂の句は「外側のみを志向する」句、とでも言ってしまえるだろうか。

だたし、それぞれ二人ともそのようなまとめ方にはおさまらない句が存在していることには注意が必要であろうが。




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