〔新撰21の一句〕冨田拓也の一句
暗喩という想像力……宇井十間
蝶交る虚空に虚空襲ねつつ 冨田拓也
冨田拓也という俳人を、これまで発表された作品から一言で特徴づけるとすれば、暗喩の俳人であるということができる。少なくとも彼の典型的な成功作に関するかぎり、そのおおくは、まず句のなかに何らかの意味的な切れが導入され、しかるのちに切られた断片のいくつかが最終的に暗喩的関係によって結合されるという構造をもっている。いい方をかえると、彼の俳句は、ともすればメトニミー的な思考に傾きがちな俳句的風土をいわば裁断する異質な着想によって貫かれているということである。その基本的な作句技法は、メタファーという方法を本格的に俳句のなかで試行錯誤しているという点で、かつての新興俳句の作風にもっとも近いともいえる。むろんそのことは諸刃の剣であって、暗喩はときに読者の側に過大な負荷を強いる以上、作者の独りよがりにおわる場合も多く、またそれは他方でつねに単調さに陥る危険をもあわせもっている。しかし、そうした危うい賭けをつづけながら、冨田拓也はすでにある一定の軌跡をのこしつつあるようにみえる。
冬眠や日月星辰巡らせつ
烈日の剥片として白鳥来
白桃や水はひとつにならむとす
冬眠と日月星の巡行との関係、ないし烈日と白鳥との関係を一句のなかで可能にしているは作者の想像力であって、この種の暗喩的な着想にこそ冨田拓也の個性があるといえるだろう。掲出句においても同様であって、楽園的に交錯するつがいの蝶それぞれの背後に、虚空を配することによって、上五と中七下五とは一度おおきく切れていながら再びつながっているのである。そのような暗喩的なつながりを想像しえたことがこの句の発見であろうが、同時にそれが鋭角的な切れの効能によって可能になっていることにも注意すべきであろう。
ところで、こうした暗喩による方法は、鋭利で直裁的な感覚表現を可能にする一方で、一句一句の具体的な内容には、意外にそれ以上の広がりを生まないことも事実である。冨田拓也の俳句を読んでいると、その巧みさに感心しながら、同時にそこから先をもっと書いてほしいという不満にしばしばかられる。暗喩は意味的な広がりをもたないので、イメージがイメージのままでおわってしまう。たしかに鋭利な映像表現であろうが、しかし同時になぜかどこかで見たような気もしてしまう。
いわゆる新興俳句が、運動としてあまり広がりを見せなかったひとつの理由もまた、同じ問題にあるように私にはおもわれる。新興俳句の個別の作品、イメージのひとつひとつはいかにもきらびやかでうつくしいのだが、きらびやかがきらびやかでおわってしまうことがすくなくない。奇妙なことだがそれは、いわゆる客観写生の句と同質の問題をかかえている。冨田拓也がこの先をどう切りひらいていくのかは興味がつきないが、それはいかにも予断をゆるさない難しい作業となるはずであろう。
総体としていえば、彼の作品はその種の期待を抱かせるものであることはたしかである。
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2010-02-14
〔新撰21の一句〕冨田拓也の一句 宇井十間
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