【俳句関連書を読む】
文庫化をよろこぶ
高浜虚子『俳句の作りよう』『俳句とはどんなものか』、正岡子規『仰臥漫録』
猫髭
角川ソフィア文庫から、昨年の7月に高浜虚子の『俳句の作りよう』、9月に正岡子規の『仰臥漫録』、11月に虚子の『俳句とはどんなものか』と、陸続と虚子と子規の本が出て、子規と虚子の袖珍本は岩波文庫専属と思っていたので目を引かれた。駅構内の「通勤読書本」売店に、返品が利かない岩波文庫が並ぶことなどありえないとしても、俳句の本が立て続けに平積みで並ぶというのも前代未聞ではないか。しかも、虚子の『俳句の作りよう』は三版を重ねており、『俳句とはどんなものか』の売れ行きもこれを上回る勢いである。
俳人というのは、他人の俳句関連書を買ってまで読もうという習いは余り無い。これは、句集は売るものでも買うものでもなく、配り恵贈に与るものであるというのが俳句世間の常識だからである。しかし、『俳句の作りよう』は売れた。マーケティングの天才が角川ソフィア文庫の編集者には居たということだ。
マーケティングの基本はAIDA理論が基本になる。Attention(注目)、Interest(興味)、Desire/Demand(欲しい)、Action(買う)である。『俳句の作りよう』の表紙をご覧いただきたい。誰これ?
睫毛こそ描かれていないがゲジゲジ眉毛にパッチリお目めの真赤なおちょぼ口の帽子を被った口髭親爺の顔がどでかく載っている。高浜虚子の本だから虚子なのだろうが、確かにわたくしも御本人には御目文字したことは無いが、全集の巻頭で写真は見ているから、まったく似ていないどころか、一体何を根拠にこういう肖像画を描いたのか、飯野和好という画家(ほんとに画家か)、いや、書き直しを命じなかった編集者に直に聞いてみたいくらいぶっ飛んだ肖像画である。
しかし、虚子はまだいい方かもしれない。正岡子規の『仰臥漫録』の肖像画など、どっから見てもこそ泥にしか見えない。表紙を開けると本人の写真があるから比べればわかる。表紙絵は首に赤いマフラーのようなものを巻いているから赤い着物を着た囚人か、贔屓目に見てもやっぱり泥棒にしか見えない恐れ入った肖像画である。
しかし、まさしくこのインパクトこそ、この本を手に取る最初のAttention 、Interestの2ステップを楽々とクリアーしている見事なまでの編集力なのだ。
虚子の二冊は昭和27年『俳句の作りやう』として合本となり、わたくしは鎌倉の古書店で散歩のときに見つけて読んでいる。この本は小学生にもわかるように書かれたものだから、かなり大掴みな書き方をしているので、新樹社が昭和47年に出した『俳句読本』も、『俳句の作りやう』では飛ばされた話題も網羅されているので、併せて読んだ。
子規の『仰臥漫録』は、四十年ほど前、講談社の『子規全集』第十一巻の四大随筆集が第一回配本だったので、新刊で買って読んでいる。
にも関わらず、この三冊の新刊はわたくしを喜ばせた。
先ず『俳句とはどんなものか』も『俳句の作りやう』も、『定本高濱虚子全集』(昭和49年、全16巻、毎日新聞社)には完全な形では収録されていない。どちらも雀の涙ほどの抄録である。角川書店の『飯田龍太全集』の時もわたくしは激怒したが、全集というものは、
悉く全集にあり衣被 田中裕明
でなければならない。これでは全集ではなく選集に過ぎない。解題の栗田靖に寄れば、昭和9年の改造社版と昭和24年の創元社版全集には全文が収録されているという。昭和49年版の毎日新聞社版は抄録だが削正が加えられているという。だったら、最新版を全文収録して校異として巻末に纏めればよいではないか。というより全集とはそういうものである。実に杜撰な編集としか言い様が無い。文庫本とはいえ、全文を読める方がまだましである。活字も大きく読みやすい。
『仰臥漫録』は寒川鼠骨が原本を子規庵から持ち出しては愛読していたが、いつからか、子規生誕百年祭まで行方不明になっていて再版不可能だった経緯があり、遺族と子規庵の管理者が裁判沙汰になる曰く付きの一書で、今回は全編カラー写真という快挙で、かつ原文が漢字とカタカナだったのを漢字混じりのひらがなに組み直して読み易く配慮してある。ただそのまま出しました、ではない工夫を凝らしているのだ。実に芸が細かい編集である。
子規には新聞などに連載された『松蘿玉液』『墨汁一滴』『病牀六尺』(いずれも岩波文庫で現在復刊中)という三大随筆があるが、『仰臥漫録』は一般に公開されない子規の私的日記だった。これが「この人を見よ」というしかない凄まじい闘病記なのだが、寒川鼠骨ではないが読むと勇気を手渡されるような赤裸裸な魂に触れる清冽さがあるのである。人生のバイブルと言ってもいい。これほど死と正面から向き合った記録は稀有だからだろう。
表紙に関しては、さすがに売れたとはいえ、気が引けたのだろうか、三作目の『俳句とはどんなものか』は肖像画ではなく、虚子の遺品を描いている。腰帯を外した写真を冒頭に載せたが、虚子生誕百年祭のイベントに訪れた者ならわかるが、一番下の手提げ袋は虚子の愛用した俳句手帳や老眼鏡や筆記用具を入れた俳句袋なのだ。わかる人にはわかる心憎いばかりの心遣いで、わたくしは前二作の肖像画の暴挙を忘れて、飯野和好という画家とカバーデザインの井原靖章と編集子に、一挙に尊敬と親愛の念を抱いた。
虚子の俳句入門は、「ホトトギス」誌上に大正2年5月号から「六ヶ月間俳句講義」として連載され、翌年3月『俳句とはどんなものか』と題して実業之日本社から発行され、大正2年12月から続編として連載された『俳句の作りやう』は、翌年12月同題名で発刊、第二次大戦下で絶版になるまで、合わせて百版を越えるロングセラーとなった。俳句本としては珍しいベストセラーだと言える。殊に『俳句の作りやう』は、内容が具体的に愚直なほど実作に徹していたので、部数も桁違いに売れた。しかし、それから百年近く経っているのだ。古典の部類に入ると言ってもいいだろう。にもかかわらず、巷間では歓迎されている。今はここまで手取り足取り教えることは少ないから、わかりやすくて新鮮だととらえられたのかもしれない。
虚子の俳論を一通り読めばわかるが『俳句とはどんなものか』と『俳句の作りやう』が一番面白く、「婦女老若にも判るように」という法話の「仮名法語」に倣っているので、これで俳句が詠めなければ嘘だというほど懇切丁寧で(無論水を飲みたくない馬は川に連れて行かれても飲まないが)、急く事無く諄々と説く平明にしてツボを押さえた実作論は、これを読んでいたら桑原武夫は「第二芸術論」を書かなかっただろうとさえ思わせる。
角川ソフィア文庫は、発刊の順序が逆で、『俳句の作りやう』の方が『俳句とはどんなものか』より売れたから先に出したという商売上の判断だろう。結局見事にその目論見は当たり、『俳句とはどんなものか』も日の目を見た。したがって、これから読んでみようかと思っている読者は、『俳句とはどんなものか』を先ず読んでから『俳句の作りやう』を読むことをお勧めする。やはり発刊の順に読んだ方が筋道が立つのは当然である。
で、なぜ面白いかだが、「婦女老若にも判るように」説くというのは、これは簡単なようでいて実に難しい。持論を説くに拙速で、上から目線の論がほとんどだからだ。虚子の指導者としての資質がずば抜けているというのは、『俳句とはどんなものか』を読み始めた途端にわかる。自分が俳句を全く知らなかった子どもの時から話を起こすのがそのひとつ。目線を本当に子ども時代に落として語り出す愚直さが凄い。
誰でも知っている加賀千代女の、
朝顔に釣瓶取られて貰ひ水
の句が最初に母から聞き覚えた句だという話をしたあと、近所の友人の家で、虚子は歌を詠みたかったのだが、友人が発句を作りたがったので、その友人のお母さんも発句を作るということになって彼女が思案の挙句に出した句が、
朝顔の蕾は坊のチンチ哉
いきなりこれである。虚子は子どもながらに「いくら発句は品の悪いものでもまさかそんなものではあるまい」と目を白黒させて説き起こすから面白い。
『俳句の作りやう』になると、実に実践的で、この第五章に「埋字」という俳句の鍛練法を出して来る。
虚子が子規と三河島村を吟行しながら歩いていると、子規が虚子に「鍋提げて」という上五の下に十二字をくっつけて句を作って御覧と言い出す。虚子は、泥田で田螺を掘っているのであろう、二三人の女が腰をかがめている景を目にとめて、
鍋提げて田螺掘るなり町外れ 虚子
という句を作る。それを見て子規は、実はこの原句は、芭蕉に私淑した高桑闌更(たかくわらんこう)の、
鍋提げて淀の小僧を雪の人 闌更
という句であり、「鍋提げて」だけを抜き出すとちょっと尋常でない言葉のようで、そのために虚子の句にしても「田螺掘るなり町外れ」だけでは平凡だが、「鍋提げて」をつけるとちょっと変わった句になっている、と言って笑ったという。
これは面白いと虚子は上五や中七や下五を埋字にして遊びまくる。そうすると、普通の句作では思いもつかぬ意外な言葉を見出したり、また意外な辺に考えが飛んだりして、先人の句作の苦労がわかったりと、句作の修練の上で得る事が多いことに気づく。そこから「埋字」により、古句の意味、その句作上の苦労を探り、それを自分の句作に応用し、漢詩や和歌を作る時の本歌取りのように、先人の句に刺激を受けて、自分でも思いも寄らない句が生れる可能性にチャレンジする事を虚子は薦めるのである。「温故知新」の実践と言えるだろう。
例えば、わたくしの愛誦句にこういう句がある。
底紅や黙つてあがる母の家 千葉皓史『郊外』
この句の埋字を、
〇〇〇〇〇黙つてあがる母の家
底紅や〇〇〇〇〇〇〇母の家
底紅や黙つてあがる〇〇〇〇〇
というようにチャレンジしてみれば、この句がどれだけ優れているか、いかに一字なりとも動かないかがよくわかる。
「酔芙蓉黙つてあがる母の家」だと酔っ払った放蕩息子の御帰館のようだし、芙蓉も木槿も朝に咲いて夕べにしぼむ一日花だが、木槿だと芭蕉の有名な句(「道のべの木槿は馬に食はれけり」)が邪魔になるのと比べても、底紅の「紅」が効いている。
「底紅や呼び鈴鳴らす母の家」では宅急便。
「底紅や黙つてあがる人の家」では泥棒だって。
というように「埋字」によって、自分の愛誦句もより深く味わう事が出来るし、何より、句をどう詠むかに様々な角度が付き、作句の幅が広がる。
俳句の創始者である子規や、俳句の普及者である虚子が考案した「埋字」は、俳句を読んで味わう事と、自分独自の句を詠むという「読解」と「作句」の両方を一挙に学べる俳句の鍛練法であり、「埋字」が様々な結社や総合俳句誌でも取り上げられているのはそのためだろう。
この子規が考え、それを広めた虚子という関係も面白い。子規は天才であり、その発想は驚くほど自由でオリジナリティに溢れている。言わばパスカルのように切れる。しかし、その天才のオリジナリティを、広く一般に普及させるには、デカルトのように、森の中で道に迷ったら一つの方向を決めて歩き通すという愚直なまでの実践的な信念が必要になる。砂漠に出たとしても森は抜けられたのである。虚子はデカルトの「方法叙説」を俳句で実践したとも言える。
わたくしが俳句に関して、よく鞄に入れているのは、正岡子規『俳諧大要』(岩波文庫)、高浜虚子選『ホトトギス雑詠選集』(朝日文庫)、『俳句歳時記第四版』(角川文庫)で、歳時記だけは山本健吉編『季寄せ』(文藝春秋)になることもあるが、これがわたくしにとっては袖珍本版俳句の三種の神器である。角川ソフィア文庫が売れたことと、NHKの「坂の上の雲」の放映により、子規に関心が集ったことで、品切れだった『俳諧大要』も七年ぶりに再刊された。ただし、『ホトトギス雑詠選集』は品切れのままであり、ここは角川ソフィア文庫の天才編集者に、角川文庫から昔出ていた『ホトトギス雑詠選集』を復刊させてもらいたいと切に希望するものである。
最後に去年見た忘れ難い光景を添えて終わりたい。
JR中央線高円寺駅ホーム上には文庫本の自動販売機があり、加賀まりこ『純情ババァになりました』(講談社文庫)や、佐伯泰英『居眠り磐音江戸双紙』(双葉文庫)と並んで、高浜虚子『俳句の作りよう』(角川ソフィア文庫)が並んでいた。コカ・コーラや煙草のように自動販売機で虚子が買える時代が来るとは、感無量である。
2010-02-14
文庫化をよろこぶ 高浜虚子の『俳句の作りよう』『俳句とはどんなものか』、正岡子規『仰臥漫録』 猫髭
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4 comments:
誤引用とも言えないのですが、
鍋提げて淀の小僧を雪の人
という句を高桑蘭更の句として挙げておられますが、これは蕪村の『新花摘』にある句で、しかも中七は「淀の小僧を」ではなく「淀の小橋を」です。「淀の小僧を」では意味が通りません。
誤引用とも言えないというのは、すでに虚子が誤まっているからで、おそらく記憶で書いて確認しなかったのでしょう。杜撰な話ですが、お説のように何度も版を重ねているにもかかわらず誤まりが正されていないのも不思議なことですね。いちおう蘭更と蕪村の名誉の為に記しておく次第です。
先ほどのコメント、舌足らずな点がありました。蕪村を蘭更としたのは虚子のミスでしょうが、小橋を小僧としたのは、角川ソフィア文庫かも知れません。私は文庫が底本とした本を持っていませんので、底本のミスなのか、文庫編集部のミスなのかは確認できません。以上とりいそぎ。
高山れおなさん、御指摘ありがとうございます。
虚子は「それは確か蘭更の句であったかと記憶します」と書いているので虚子の不確かな記憶によるミスで、それをわたくしも含め、「小僧を」では変だなと思いつつ、そのまま写していたもので、確かに蕪村の句で、
鍋さげて淀の小橋を雪の人(安永三年)
とありました。
こういう不確かな記憶による誤引用はしばしばあるのですが、普通は注釈を付けるところを、編集者も気づかずに見過ごしていたのでしょう。
ありがとうございました。
>蕪村を蘭更としたのは虚子のミスでしょうが、小橋を小僧としたのは、角川ソフィア文庫かも知れません。
高山れおな様、ダブルミス、御推察の通りでした。わたくしも帰省しているので合本との参照が取れませんでしたが、拙稿と高山様のコメントを見た角川の担当者が仰天して赤面の至りと謝辞の連絡がありました。『俳句の作りよう』は4刷が1月に出来ており、5刷で必ず訂正するそうです。
不確かな記憶による誤植は、実はわたくしにも或る記憶があります。幸田露伴の娘幸田文の全集は、中央公論社と岩波書店で二回出ているのですが、新潮文庫を含め、周興嗣の『千字文』の引用で誤植があるのです。智永の「千字文」を臨書したことがあれば誰でも気づく誤植で、多分文の記憶違いで、それを編集者が気づかずにいるだけですが、昔から指摘するのが惜しくて、愛読者として、その誤植を自分だけが知っていることが、あわてんぼうでもあった作者とつながっているような気がしてならないのです。
高山様の指摘で、そんなことを思い出しました。
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