2010-02-07

現俳協勉強会 「田中裕明『夜の形式』とは何か」 第二部 田中裕明の人と作品

現代俳句協会青年部勉強会「田中裕明『夜の形式』とは何か」

第二部 パネルディスカッション
「田中裕明の人と作品」


パネリスト ● 森賀まり・対中いずみ・満田春日・山口昭男・四ッ谷龍
司会● 橋本 直
photo 神田薫

橋本:本日この場においでいただいた皆様方は、森賀さんは勿論ですけれども、皆様田中裕明と非常に縁のある方々です。さっそくですけれども、皆様に田中裕明の人物と俳句について、それぞれ思っていらっしゃることなどを最初にお話いただきたいと思っております。そのあと参加者全員とのディスカッション・質疑応答ということで進めてまいりたいと思っております。では、満田さんからお願いします。



満田:満田春日と申します。よろしくお願いいたします。5年あまりで終刊になった「ゆう」のちょうど半分、後半の2年半、裕明先生に教えていただきました。句会でお目にかかったのが7回です。たった7回ですから、こんなところにいるのがいたたまれないような気がしますけれども、何か少しでもお伝えできればと思います。



初めて先生に会ったのが、2003年1月の「ゆう」の3周年記念句会のときでした。
第一印象は「ふくよかな感じ」。体型のことではないですよ。先生の周りがほんわかと暖かくて、明るかったことを印象深く覚えています。それから毛糸帽を被られていて「あぁ、ご病気なんだな」ということ。句会が終わって句会から懇親会の会場、畳の部屋に行くエレベーターでたまたま一緒になり、一升瓶を大事そうに抱えてらして、「あ、お酒がお好きなのかな」と思ったんですけれども、のちに、見たことも無いような酒豪であることが判明致しました。





先生が俳句を作っている姿というのを一度だけはっきり見たことがあります。四ツ谷さんの先ほどの話とオーバーラップするところがあると思うんですけれども、写生派の俳人がノート片手に何かに向かってどんどん書き写して行くというのとは、本当に対照的でした。俳句を書いているとか詠んでいるのではなくて、瞑想しているような感じですね。私はあまり超現実的なことは苦手なんですけれども、このときばかりは「ああ、先生に何か降りてきている」というような感じがしました。

ちょうど6年前、横浜の石川町からすぐのブラフ18号館という洋館の庭先でのことでした。

3周年句会でお会いしてからは東京、横浜への出張ですとか、清水哲男さんの「余白句会」のついでによくこちらで小さな句会をしてくださいました。「本当は定期的にするのが良いのでしょうね」なんておっしゃることもあって、そのときは「ゆう」の関東支部とかそういう意欲をお持ちなのかなあと思ったんですけども、今思えばそうではなかったですね。ただ自分のところに来た人間を心をこめて育てよう、面倒を見ようというお気持ちだったと思います。……ご自分は命に関わる病気と闘っていたというのに。



「俳句研究」での高橋睦郎さんと先生の対談で、高橋さんが「師匠は弟子のために命を捨てる、弟子は師のためにそうする。それが師系の根幹ではないか」というようなお話をされました。裕明先生は最後の最後まで病院を抜け出して句会を指導されましたから、それは本当に俳句を愛していたからだと思いますが、睦郎さんのそのときのお話が心のどこかにあったのではないかなという風に想像します。





とにかく私たちは先生を疲れさせました。先生はそうして下さったのに、私たちは何が出来たかなと思うと心が詰まります。私は何人かの仲間と「ゆう」の門を叩いたのですけれども、「ゆう」に入ったばかりの私たちよりも、もっと句座を共にすべきかたとか、話をするべき方が沢山いらしたはずなのですが、先生は人を区別されなかったですね。自分がどうしたら得になるかとか、どうやったら効率よく動けるかとか、無意識に人間というものは考えてしまうものだと思いますが、先生はそういうとことがなかった。

いつも丁寧で謙虚でやさしくて。

これから申し上げることは瑣末なことかもしれませんけれども、例えば約束の時間に絶対遅れなかった。いつも私たちより前に見えてましたね。一度など、新横浜の地下鉄の改札に、私もちょっと心配で30分くらい前に確認に行ったのですが、先生はもうそこに立ってらっしゃって驚きました。会場はまだ使えないので慌ててコーヒーショップにお連れしたことを思い出します。



それから、吟行会の宿泊の部屋、和室と洋室と両方ご用意できますが、どちらがよろしいですか、と添削の余白に、○をつけて下さいと書いたことがあったのですが、普通の○じゃなくて点線で囲まれて戻ってきまして、「でもどちらでもいいですよ」と書き添えてありました。ちなみに○がついていたのは洋室の方でした。





亡くなる一週間くらい前だったと思いますが、分厚い封筒が届きまして、お手紙と共に、唐招提寺展のオープニングセレモニーのチケットとか案内とかいろいろ入っていました。高橋睦朗さんプロデュースだったと思いますが、作品展が併設されていて「時雨僧高き位でありにけり」という作品を献句されていました。そういうのは自分が行けなければほうっておいてもいいように思いますが、そうはされなかったんですね。そういう先生の人間性や生き方が俳句の大本にあるのを、身をもって知っているっていうことが私の宝です。





こちらでの句会は私たちのレベルを考えられたのかも知れませんけども、難しいことはあんまりおっしゃらないで、ただ特選の句を丁寧に丁寧に評されました。私の友人の「よく眠る母を見てをり梅雨の月」をただ一句特選にされたことがあって、そのときは素十の「春の月ありしところに梅雨の月」を引かれながら、これは看取りの句でしょうねと。親子の情を思いやりつつ暖かく読み解かれました。





最後にお会いしたのは、亡くなるちょうど半年前の2004年5月末の箱根稽古会でした。それが済んでほっとする間もなく、ほっとしたかったわけじゃないんですけれども、すぐにまたメールが来たんですね。「7月に出張がまたあるので、翌日の土曜日に吟行句会はいかがでしょうか」と。「いかがでしょうか」というのが裕明先生の仰り方で、いつもそういう控えめな提案のされかたでしたが、その日私はたまたまどうしても都合がつかなくて、そのことを思うに俳句の神様って本当にいるなあと思うのですけれども、代わりに田中先生は四ツ谷さんに連絡されたんです。

お二人はとてもすばらしい時間を、最後の時間をお過ごしになられました。「草かげろふ口髭たかきデスマスク」などたくさんの句をお詠みになりました。本当に最後にゆっくりとお二人でお会いになることができてよかったと思います。私たちの代わりに四ツ谷さんなんて本当にとんでもないことなんですけれども、それがいかにも裕明先生らしいです。



その後、7月の代わりに8月4日に築地をご案内することになったのですが、ちょうどその日が最後の入院の日になってしまって、叶いませんでした。お便りには「申し訳ありません。私も本当に残念です。よい句を作りたいと切に願います」とありました。





よく俳句を作るにあたっては対象と一つになるということが言われますけれど、裕明先生はそれを超えて、詠んだ句がご自分とひとつになるというところまでいかれたんだと思ってます。それがどうやってなされたのか、今とりあえず私の仮定なんですけれども。裕明先生の句は、本歌取りの句を別にして、他の人の句と本当に似ていないですよね。それはご自分の中の類想を恐れないで、一つ一つの思いや情景モチーフを捨てず、幾重にも重ねて言った、立ち向かっていかれたということがあるのではないかと思っています。



例えば、全て句集に残された句なんですが、「歩くうちたのしくなりぬ麦の秋」は「あるくうち足かるくなる椿かな」となって、「木と別れ水をはなれて雪解風」は「木を守り水を守りぬ初あらし」「春蘭を掘り目隠しをされてゐる」は「掘り来る春蘭のため家くらし」。それから「赤煉瓦うれしき八十八夜来る」これは表に現れた感情は逆なんですけれど「さびしいぞ八十八夜の踏切は」という風に更新されているように見えます。

そうやって重ねていくたびに句がより作者に近いものになってゆく。それは個性があるとかないとか、そういう次元ではなくて、何かこう切ないような、俳句と人間が切り結んで重なってゆくイメージを私はもっております。





先生の死後、生前は考えられなかったほど多くの評論や鑑賞が書かれて、特に四ツ谷さんの評論とか今日の講演もそうですけれども、ふらんす堂の「昼寝の国の人」とか、小澤實さんの「澤」の特集とか本当にすばらしいものでしたけれど、それらを全部消化できたとしても、分からなさは残る。消化するということは私にはとてもできなくて、怠け者で直感に頼りがちな私は、裕明先生の句は、結局ただただ好きなんだなぁと思うことが多いのですけれども、とにかくいつまでも謎や判らなさが残るというは、悪いことではないと思っております。





私のことに及んで恐縮なのですけれども、「はるもにあ」の2月号に柳生正名さんがとても興味深い一文を寄せてくださいました。発刊前なので詳しくは申しませんけれども、数学で素数っていうものがありますよね。1と自分自身でしか割り切れない3とか7とか11とか、無限数あるのですけれども、それらがバラバラに出てくるようで、出現する法則がありそうだ、と思いついた人がいる。それを「リーマン予想」というそうで、以前テレビでもやっていたことがあって、私もたまたま見ていて、素数の出現する順番の中には宇宙の真理が隠されているとも言われているんだそうです。でも、一世紀半たっても未だに解明できず、気がふれたり自殺したりした数学者もいるそうなんですね。

柳生さんはそんな素数に梅の花を絡めて詩的に書いてらっしゃるんですけれども、さらに俳句も短歌も17音と31音で素数であると。そして割り切れる俳句がもてはやされることに違和感を感じる自分がいるという風に書かれています。1と自分以外で割り切れない素数。柳生さんは「海程」の方ですから金子兜太氏の句をそこにあげていらっしゃいましたけれども、私は裕明俳句もまさにこの素数的な俳句なのかもしれないと、そこにもしかしたら宇宙の真理が隠されているかもしれないって、そう思うとどきどきします。





最後にこの5年自分が何をしてきたかと思うにつれ、情けない思いがします。これからも裕明俳句を大切に読み続けていきたいと思っております。以上です。ありがとうございました。



(拍手)



橋本: ありがとうございました。引き続き森賀さんお願いいたします。

森賀:こんにちは。森賀まりです。私は出会いの頃のことをお話しようと思います。私と田中(「タ」にアクセント)は、高校時代に受験雑誌の投稿欄に入選した方ばかりを集めた「獏」という雑誌に入ったことがきっかけで出会いました。

大学に入って、私は四国の愛媛から関西に出てきまして、自分と同じように作品を作る若い人たちと出会いたいと思い「獏」の集まりに行き田中に出会いました。当時私は現代詩と言われる多行詩を書いておりまして、田中の方はもう島田牙城さんとかと俳句を作っておりました。今日はその「獏」の時代の古い友人で「杉」の上野一孝さん、「歯車」の松田正徳さんが来られております。



当時、田中の作っている俳句は私から見るとずいぶん爺むさいことをやっているなと思っていたんです。でも、元「ゆう」の仲間でもありました「渦」の小山田真里子さんが早くから田中の俳句を好きだとおっしゃっていて、この句がよいあの句がよいと教えてくださるので、私も「遠きたよりにはくれんの開ききる」とか、先ほど春日さんが挙げました「赤煉瓦うれしき八十八夜来る」とかそういった句がだんだん好きになりました。

私は当時田舎から出てきて、たいへん文化に飢えておりまして、もともと絵画が好きで自分も描いたりもしていたんですが、関西に出てきて展覧会や美術館の多さに舞い上がってしまいまして、それで次々でかけていたのですが、そのときに全部付き合ってくれたのが田中です。

田中は大阪の北野高校の出身でアマチュア無線部とかにいたそうですが、大学に入ってから芸術を広く知りたいと思っていたようで、それが、私が行きたい行きたいと思うのと合ったようです。あとで知ると当時梶井基次郎を読んでいた田中は、いろんな美しいものを知りたい、芸術を知りたいと梶井が書いているのに倣って自分もいろいろ吸収したいと思っていたようです。

今日の四ツ谷さんの講演にも出てきました象徴派の展覧会へも行きましたし、奈良であったエゴン・シーレ展や兵庫県であったルドン展、それから印象派のものにも行きました。



どのくらい行ったでしょうかね。どちらかがチケットを用意して、当時はメールとかそういうのはないですから葉書で連絡をとりあったり封筒でいきなりチケットを送ったり。それで観に行って、お昼ご飯はごちそうしてもらって。

そのあと大体お決まりは、阪急の十三という駅が田中の実家の最寄駅なんですが、その駅前にトミーズというファミリーレストランがありまして、私は当時大学の寮におりましたから門限ぎりぎりの電車まで喋っていて、そこは私が支払ってという感じでした。



そのときトミーズでは山ほどお喋りをしたんですが、私は今日見た絵画展のことや、最近観た映画や漫画の話とか色々するんですが、田中の方は最近読んだ本の話をすることが多くて。今日やはり四ツ谷さんのお話に出てきた現象学はそのころ田中から聞きました。

フッサールやメルロ・ポンティやそのころに聞いた名前は、結婚してみたら家の中にそういう本があるので名前には多少親しくなりましたが、田中としては一生懸命説明してくれて、こんなこんなと言ってくれたのですが、私は頭が悪いんでさっぱり覚えてないんです。

今日はお話を聞いて、あの頃のものが作品にそのまま出ていたことや、当時わけの分からなかった「夜の形式」という文章はそういうものであったのかと、本当に当時のあの空気そのままの文章であったんだな、とよくわかりましてとても懐かしく思いましたし、そのときの心持を思い出してちょっと最後は泣いてしまいました。



私は当時詩を書いていたのでその話も田中に語りました。太田省吾さんという人の文章の中に、人の感情の喜怒哀楽のあわいの曖昧なものを表現したいという部分があって私はそれにとても感じ入りまして、自分の心の中のわからないようなものを書きたい、ということを強く思っていて。それは今でもあまり変わらないんですが、もしかしたら田中も、そういうようなことを多少思っていたのかな、という風に思いました。



それから詩情ということもその言葉通りの表層しか思ってなかったんですが、今日講演を聴いて、詩情という言葉に込められたものの背景が分かりました。今日は本当に来てよかったと思います。私は田中と暮らして一番近いところにいたんですが、あまりよく知らずにいたんだなということも思いました。思い出したことでは、大峯あきらさんに「花月の思想」という文章がありまして、「いさおしは多い。だが、人はこの地上において詩人として住んでいる」というヘルダーリンの言葉を引いて書かれた文章ですが、自分はどんなことがあっても、そうして行こうとその頃から強く思っていたんだな、と思いました。



ちょっと話がずれますけども、さきほど春日さんは、田中の晩年の頃の田中を語ってくれましたが、田中はとても楽しい人です。私なんかよく冗談を言われてからかわれたりしたのですが、明るくてとても楽しい人でした。

私が田中を初めて素敵だなと思ったのは、そこにいらっしゃる上野一孝さんが、トミーズで「獏」の面々と喋っていたときに、リラックスしている田中のお腹を見て、「すごい腹やな」と言ったんですが、田中はすっと姿勢を正して、「ありがとうございます」といったんです。私はそのとき「すてき」と思ったんですが、これは誰に言っても分かってもらえないんですけどね。



怒ってその場を乱すというようなところが無い人でした。夫婦は顔がだんだん似てくるとよく言われますが、私は若い頃「怒りの森賀さん」とか言われてたんですが、田中と暮らしているうちに多少穏やかになってきたかなあと思っておりました。田中がもうちょっと長生きしてくれていたら、もうちょっと良い顔になったと思うんですが、それがとっても残念です。



田中は困ったときも怒ったときも悲しいときもみんな笑った顔になるちょっと不思議な人でした。田中が亡くなって間もないころ、「ゆう」の佛原明澄さんが「僕は田中さんは天使だったんじゃないかと思います」と真顔で言われたときはびっくりしましたが、表情に関しては確かにそうだったなと、お酒の棚の前でにこにこしている田中をちょっと思い出してそう思いました。


(拍手)



橋本:ありがとうございました。続きまして対中さんお願いいたします。

対中:四ツ谷さんすばらしい講演を聞かせていただいてありがとうございました。多くの方もお集まりいただいてありがとうございます。

田中裕明先生との出会いということですと、私2000年1月に突然俳句を作りはじめたんですが、その前にたまたま歳時記をちょっと見たりして、作れるかもと思って作り出したのです。「ゆう」にたどり着きましたのが2000年5月ですから、全くの初心者で俳句が何にも分からない中で5ヵ月後に田中裕明先生の「ゆう」に出会えたというのは奇跡的でした。



最初俳句を始めましたとき、「これは嵌る」と思ったんですね。「これはなにかすごく嵌る」と。ただ、作っても自分では分からなくて、やっぱりちゃんと見ていただく先生に出会いたいと強く思いました。当時手に入るだけの総合誌ですとか入門書とかをかなり集めて読みまして、ずいぶん一生懸命探したんですけれども、この方と思える方がなかなかいなくて。

色々見ている中で、石田郷子さんの作品が私とても好きでした。とりわけ「さへずりのだんだん吾を容れにけり」。もうこの句でぐっと胸に来まして、でも石田郷子さんは、当時は俳誌も持っておられず、「木語」の同人でいらっしゃいました。

お手紙を思い切って出してみました。知らない人に手紙を出すということで、すごく勇気が要りましたが。自分の下手な句を書いて、こういう句を作る者です、と。できれば石田郷子さんに見ていただきたいんですけれども、ご無理でしたらどなたか適切な方をご紹介ください、と。そして本当に生意気ですけれども、お稽古事の俳句をしたいわけではなくて、詩としての俳句を作りたいと思う者です、でもまだ自分でもぜんぜん分からないので、ということでファンレターのような相談の手紙を書きました。



そうしたら、すごく気さくにメールですぐに返事を下さって、関西で田中裕明さんの「ゆう」が始まりました。そこをお勧めします、とご紹介いただいたんですね。田中裕明という名前を初めて目にしました。それで古い俳句雑誌なんかを、ブックオフで100円とかで売ってたのを買い占めたのがありまして、めくってみたんですけども、今は田中裕明というと皆さんもう随分読んでいただいていて、俳句の世界では知らない人はあんまりいないと思うんですけれども、その頃はあまりとりあげられていなかったような気がします。

唯一俳誌の一つに「をさなくて昼寝の国の人となる」という句が取り上げられて、それで「こういう句だったらまあいいかも」と、ちょっと生意気な気持ちでした。それで思い切って「ゆう」に入らせていただきまして、2000年5月から「ゆう」で俳句を見てもらうようになりました。 



初めて句会でお目にかかったときの印象というのは、目がくりっとしていて、とても知的な方だなという印象でした。非常に物静かで穏やかですけれども、とても知的な方、あたたかな方ということを感じたと思います。

ただもう無我夢中でやっておりましたけれども、いま森賀さんが言われた「明るさ」というのは私もとても思いました。『夜の客人』の帯にふらんす堂の山岡さんが「晴朗」という言葉を使って紹介されてるんですけれども、晴れやかに朗らかなという晴朗。その言葉を見て私は嬉しかったです。内側から光が漏れでているような方だったと思います。



句会は、10句くらい選をされたあと2・3句の特選について解説すればそれで終りでした。主義主張とか理論とか難しいことは仰らなくて、ほとんど実作の選を中心に指導されました。

そんな中で、「俳句というのは詩である」「あなたは詩人として生きている」「だから詩情が大切である」というメッセージを受け止めて参りました。私などは普通の社会に生きている主婦の一人で、自分を詩人と思って生きてきてはおりませんでしたが、そこには新鮮なチャレンジングな響きがありました。裕明先生の「詩情」という言葉には、ひじょうに真面目な思いがあったと思います。



人となりということでは、すごく安心感のある先生でした。言わなくても分かってもらえるという感じがあったんですね。普通やっぱりちゃんと分かるようにいいなさい、説明しなさいというのがこの社会だと思うんですけれども、でも言えないこともやっぱりあって、本当に大事なことは口で言えないことも多い。そういうことが言わなくても分かって貰えているという感じあってそういう意味で安心感があったんだと思います。



出会いの話ばかりしていても仕方がないので、一つだけ今日の夜の形式に少しつながりそうな話をします。今度「静かな場所」の5号が今年の夏あたりには出ると思うんですけれどもーー「静かな場所」という同人誌をこの4人にあと2人、同人6人で年1回発行しているんですけれどもーーその原稿を書いていまして、そこにもっと詳しく書きますが、句会でこういう発言がありました。

先生が、虚子の「酌婦来る灯取蟲より汚きが」の句について「ゆう」に短い文章を書かれまして、そのことについて句会の終わる直前に誰かが質問されました。もうちょっと詳しく話してくれということで、それに対して答えられた言葉です。

「美しい景を描けば美しい絵となるとは限らないように、描かれている内容ではなく描いている作者の気持ちが澄んでいれば、そしてそれが作品に表れていれば俳句として良くなります。描くときの作者の心ばえで俳句の価値は決まると思います」「美しいものを美しく描いたから美しくなるのではなく、それを作ったときの作者の気持ちのありようが読む人に響いてくるというのが良い句なのです」という風に仰っていました。

気持ちのありようが響いてくるとか、俳句を作るときの気持ちが澄んでいることとか、このあたりは、裕明先生のいう「詩情」にかなり関わることかと思います。でもいつもいつもそんなことを仰っていたわけではなくて、たまたま質問がでて、それに引き出されるような形で言われた言葉です。それだけに本心だったろうと思います。それを紹介させていただきまして終わらせていただきます。どうもありがとうございました。

(拍手)



橋本:ありがとうございました。続いては山口さんお願いいたします。

山口:皆さんどうもこんにちは。神戸から参りました山口昭男と申します。関西ですので話しぶりが関西弁になってしまいます。お許しください。



私は裕明さん、裕明先生ですね、裕明さんとは大変長いお付き合いをさせていただいております。ここに「青」という俳誌がありますけども、私が「青」に入りましたのが昭和55年です。年が分かってしまうんですが25歳。ちょうど社会人になって3年目くらいですかね。25歳のときに「青」に入らせていただいて、初めて「青」の鍛錬会というものに行かせていただきました。

普通俳句始めてまだ1,2ヶ月のものがそんな鍛錬会にという思いもあったんですが、もう怖いこと知らずで、先輩たちについて滋賀県の浅井町というところに須賀谷温泉というのがあるんですけれども、そこへ1泊2日の鍛錬会に参加させていただいたんですね。



そこに裕明さんがいらっしゃって、もう彼は半ズボンで、前の日から泊り込んで、(島田)牙城さんや(上田)青蛙さんと句会の準備を取り仕切って、活躍されてました。私はもう末席のほうでまぶしい感じの裕明さんの姿を見ていたんですけども、そこで句会があるわけです。その句会のなかでいろんなドラマがあるんですけども、私は俳句ってものが分からなくて、いったいどのような俳句を作ったらいいのか、とやってる時期でしたし、大体俳句ってものは変な話、古臭いという感じで私は入りましたので、あまり驚くようなことはなかったんですけれども、ただ裕明さんの句には大変びっくりしました。

例えば「蝉とぶを見てむらさきを思ふかな」なんていう句が出てくるわけですね。当然(波多野)爽波先生はとりません。でも(宇佐美)魚目さんの特選に入るんです。これはすごいなと思いまして。「枝紅葉なるほど大き蜘蛛のゐて」これも魚目先生の特選です。こんな風な俳句もあるんだと思って、私はびっくりして、その名乗りが裕明という名乗りですので、あの、青年ですね、ちょうど4つ下なんですね裕明さんというのは。あの半ズボンのちょっとふっくらとした少年が、少年というのもおかしいけども、当時は京都大学の大学生です、大学生がこんな俳句を作るんだということで、大変驚きまして、ひとつ一緒に俳句をしたいなあという思いも湧いてきました。



そして20年経った今、「ゆう」に入って一緒に俳句をさしていただくようになって、もう一度「青」の10月号を読んだときに、もっとびっくりしたことがあるんですけれども。ここに「青」の11月号というのがあるんです。「青」の10月号は鍛錬会の俳句が載っているわけですね。裕明さんのこういう句があります。「雪舟は多くのこらず法師蝉」と出てるわけです。ところが「青」の11月号の雑詠欄、巻頭を取られてますけども、巻頭の裕明さんの句には「雪舟は多くのこらず秋螢」という風に完璧に季語をかえられている。

私はそれを見たときに、当時全然気がつかなかったんだけども「ゆう」に入らしていただいて、それを資料的に見たときに大変驚きまして、やはり「法師蝉」よりも断然「秋螢」だと、納得しました。これは「青」という結社がそういうことを勉強させてくれたということはあるんでしょうけども、やはり田中裕明っていう俳人の凄さやなあと思いながら再確認したっていうことを今思い出します。



20代で彼と出会って、そして「青」で一緒にやってまいりました。彼はその間大学を卒業されて、厳しいサラリーマン生活に入られる訳ですけども。「青」がずっと続いたら良かったんですけども、「青」は続きませんでした。「青」が無くなった後どうしようかということで、皆さんたちが話し合いました。そして当然裕明さんもなんとかせなあかんのやという思いはあったんでしょうけども、やはり働き盛りの時代でしたから そう簡単に自分から立ち上げますということは仰りませんでした。

その代わり何人か集まって、水無瀬というところで「水無瀬野」俳句会を持っていただきました。結社ではなかったんですけども月に一回そこで俳句会をして、時には泊り込みの吟行会をして何年かやりました。そしてようやく「ゆう」という結社を立ち上げようということになったんですね。



そのときに彼は主宰者です。当然編集者がいるんです。ところが彼は私に編集長になって下さいねとは言わないんですね。そこは彼の良いところであって、アイコンタクトですよ。そんな、私は彼と目と目を見つめあったわけじゃないんですけども、アイコンタクトで、なぜかは知りませんが返事をしてしまったんですね「私、します」ゆうて。

そのときもう、編集は大変だとか、どんな仕事があるのかということは全然分かってないんですよ、私としては。でも田中裕明が結社を起こすと。そして田中裕明の指導の下で句会ができるという嬉しさですね。それがあったので私は精一杯やらして貰いますという思いで編集長になりました。



やっぱり彼は仕事人ですから大変忙しいんですね。編集長と主宰の相談日が無いんです、これがまた。普通は主宰の思いを聞きながら編集していくんですけども、「ゆう」の場合は全くそれはできなかったというのがあの5年間でした。本当にお忙しいんです。だから私のところにレターがあるんですけども、レターの便箋はどこかのホテルの便箋とか多分出張に行かれたときに書かれたんでしょうね。お手紙、お葉書が簡単に一行か二行、こうして下さいというようなことで。大変お忙しい中で主宰をやられているということはよく分かりました。

私も難しいことは一切主宰には言いませんでして、来月はこうします、というだけで、しかも句会が終わって、あの人、二次会好きですから、お酒飲みに行く二次会の間の道のりです。それも5分くらいしかないんですけども、5分の間で二人で話して、来月の特集、またはこの方に文章を書いていただきたいというようなことを私から進言さしていただいて裕明さんはこうして下さいということで、本当に簡単な編集会議というのを持ったということを、今思い出しています。



「ゆう」というのはそういう結社やったんですね。だから彼が声を大にして、ああせえこうせえというんじゃなんくて、彼の姿を見ながら私たちは学んできた。今何人かの方が、句会も大仰なこと理論的なことではなくて、その一つ一つの句について具体的な話をされたということを言われましたけども、そのとおりで。たとえば句会が終わったあと、特選の句についてのお話が終わったあとに何か質問はありませんかって、我々に聞くわけですね。

そうすると「子供俳句はどうですか」というような質問が出る。そういうときに裕明さんは決して一般論は言わないんです。じゃあどのような子供俳句についてのお話ですか、と具体的な俳句について、良いかどうか、どう判断したら良いかという話をされていました。決して子供俳句はいけないとか犬猫俳句は作らないようになんてことではなくて、犬猫が出てくるような俳句、どんな俳句ですか、と、具体的な俳句で話をされたということが我々にとっては勉強になった。特に初心の方なんていうのは、本当に回り道せずに真っ直ぐに俳句の道を歩まれたんじゃないかな、ということを思います。



今、若い方々が田中裕明さんの俳句を読まれているってことは、とっても嬉しいことです。もっと私が嬉しいのはこのような会を持っていただいて、田中裕明さんの言ってたこと、書いたことの、どこがどうつながってくるんかということを、四ツ谷さんが解釈されている、と。そのことをこんな沢山の人に聞いていただいているということは、やはり私もう25年近く田中裕明という俳人の傍にずっとおらしていただいて、こんな嬉しいことはないと思っています。

私事ですけども、そういう田中裕明の俳句っていうのを少しでも誰かに繋げていきたいという思いで、今年1月に「秋草」という俳誌を立ち上げたんですけども、本当に薄い俳誌ですが、少しでもそういうことが後々の方々に伝わっていけたらなという思いで今やっているところです。このような会が、またあちらこちらで開かれたら私たち裕明の弟子として、とっても嬉しいことだと思います。今日はありがとうございました。

(拍手)



橋本:ありがとうございました。皆さんそれぞれ今日の四ツ谷さんの話とも含めまして興味深い話を頂いたんですけども、これから時間としては会場の皆さまとここにいらっしゃる方々の間のディスカッションという形をとらせていただきたいと思うんですけども、その前に四ツ谷さん何かありますか。今の話を伺いながら。

四ツ谷:思い出話を一つしましょう。「田中裕明に睨まれたこと」というお話です。

裕明の先生は波多野爽波さんという人で、この先生はなかなか大変な、素晴らしいけど大変な先生でした。一度、裕明に誘われて爽波さんの指導句会に顔を出したことがあるんですね。そしたら句会の最後に、波多野先生がホトトギス雑詠選集の書き取りをやらせていました。「私が読むからそれを書くように」って言って、お弟子さんたちに筆記させるんです。こんなこと毎度やらされたら、私だったらたまんないなと思いながら、聞いていたんですけども。

「櫻姫譚」という句集が出たときに山岡さんの計らいで東京の新宿で何人かの人が集まってお祝いの会をしました。その二次会はゴールデン街の果てにある飲み屋でやったんですね。

そのときに、以前のことを思い出して裕明に、「いやあ、波多野爽波の弟子をやってるのも大変だねえ」って冷やかして言った。すると、田中裕明という人は割と黒目が小さくて白目が大きい人だったんですけど、ギロッと白目を剥いて僕の方を睨んだんですね。あのときは怖かった。もうこのまま彼に嫌われて口を利いてもらえなくなるんじゃないかと思ったんですけど、その後「じゃあホテル帰りますから」と言って私の手を取って握手してくれて、ああ良かったと思ってほっとした。生まれてから一番怖かったことのひとつが、裕明に睨まれたことでした。

橋本:ありがとうございました。面白い話でした。


質疑応答


藤田哲史:田中裕明の俳句の魅力の一つに「叙情」という言葉があるが、「叙情」と「詩情」の違いは何なのでしょうか。「詩情」についてさらに深く考えを聞かせてください。

四ツ谷:叙情というものが何かはよく分からないので比較しては言えませんが、思いを語る、情を述べるというのが叙情だとすると、詩情というのはそうじゃなくて物のあり方が違うとか物の見方が違うということ。さっき現象学の話をしたように、普段見ているものとは違う形を発見する、本当の形を発見するということが詩情になるのではないでしょうか。

藤田:田中裕明が他の作家について良いと言っていたことはあったのでしょうか。

山口:大正時代の骨太な作品を読めとずっと言ってらっしゃいました。「ゆう」の5年間では素十、草田男の特集は組ませていただきました。爽波先生も裕明さんも素十と草田男は大変大事にされていました。

対中:一人の人物を強調して勧める指導ではなかったように思います。非常に広やかでした。良い句は良いということで取り上げておられました。句会で例句としてよく出てきたのは飯田龍太、星野立子です。立子句集については、これはもっと読まれても良い句集ですねと仰っていました。

森賀:大正期の作家という風に言っていました。素十、草田男に限らず名前は挙がっておりました。

満田:句会の中で鑑賞しながら先人の句が浮かんで一緒に差し出されるということがよくありました。箱根で句会をやった折、部屋に集まって俳句とはどういうものかということを仰っていたとき、4Sは誰?4Tは誰?「『ゆう』でテストをしましょうか」ということを突然仰ったことがありました。「ゆう」に初心者が多くなり、そういうこともしっかりやらなければと思われていたんだなと思います。

四ツ谷:彼と酒を一緒に飲んでいた折、どの作家が好きかと聞いたことがあった。すると「『青』の人間としてはこういう発言は問題があるのですが、水原秋桜子が好き」と言っていました。その場その場で適当に言っていたような気もするのですが(笑)。飯田龍太は確かに好きだったと思います。



高橋睦郎:一度、僕のほうからお願いして、裕明さんと雑誌で長い対談したことがあって、そのとき記事には出なかった話ですが、僕と僕の師匠の安東次男との関係に話が及んだとき、裕明さんは「最終的に安東さんに、見てもらわなくてよいようになって、良かったですね」というようなことを言っていたんですね。その時、この人は爽波という人を非常に尊敬してるけれども、自分と爽波は違うんだと、そして最終的には一人ひとりなんだ、と考えているという感じを、強く持ったんです。その尊敬ということと、一人一人ということは、まったく両立することなんですけれども。実際、たとえば山口さんは、裕明さんと爽波さんの関係を長く見られてきて、どう感じられますか。


山口:裕明さんは爽波先生に対しては絶大な信頼を持ってらっしゃって、やはり師系というものを大変重んじていた俳人ではないかと思います。私が爽波季語選集を自家版で作ったときは大変喜ばれ、これがあるから、爽波の俳句が分かるんだということを話してくれたんですけれど。爽波があってこその自分があるという、師への尊敬とか思いは強かったんじゃないかと思います。いま高橋さんが言われた「最終的に」という話は、私はよく分からなかった。私は、裕明さんが爽波に絶大な尊敬をもっていたことを知っていますし、「死んでから悪くいう人」なんていう俳句も作っていて、爽波の悪口を言う人には本当に嫌な思いをされていたと思います。


森賀:田中が角川俳句賞を取ったときの50句は、爽波選に漏れたものを集めて出したそうです(笑)。高橋先生が言われたことは、そういうところに現れているんじゃないでしょうか。

高橋:森賀さんのお話はかなり腑に落ちました(笑)。山口さんはお立場もあろうかと(笑)たしかに、尊敬ということは最後までそうだったろうと思います。僕も、安東次男のことを悪く言われて色をなして怒ったことがありましたが、運命として知り合った人のことを大事にするのは大切なことです。しかしそのことと、自分が作っていくことはどこかで別のことであって、自分が先生とは違うところに出たな、という思いもあったろうし、詩質の違いを、あるいは初めから分かっていた、という面もあるかもしれない。山口さんの言われた、爽波さんは取らなかった句を魚目さんが取ったという話は、大切な話で、そういうことを語っていくことも田中裕明について学ぶ上で、重要なことなんじゃないか。先ほど言われた「夜の形式」というのは、「夜の態度」でもあって、つまり世界に対する自分の態度ですね。学ぶことは、そういう態度を学ぶべきであって、その人をなぞることではないということを、感じています。

森賀:田中は爽波先生の選を信頼していました。かなり冒険をしつつ、これはどうやというようなことを先生にぶつけていたと思います。角川賞の先ほどのエピソードについても「いや田中君がこんなことを言ってるんだよ」というふうに、気分を害さず笑い話として話してくださったことがありました。



上野一孝:私は森澄雄の門下なんですが角川の「俳句」の中で、森澄雄、上田五千石、後藤比奈夫の座談会があり、その中で森澄雄が田中裕明と岸本尚毅の句について、人生の直接的なことが話題になっていない俳句はけしからんとかなり強く発言しました。田中さんはこれに対してどのような反応をしていましたか。

対中:裕明先生の反応は聞いていませんが、裕明先生は人生を読まなかった俳人ではないと思います。たとえば「おのづから人は向きあひ夜の長し」という句があります。私が即吟や吟行が苦手だとお話したときに、裕明先生は鍛錬会(一泊吟行)は人との触れ合いの場と思って臨むのがよいと思いますと仰って、自分の鍛錬会の句で良いと思ったのはひとつしかありませんと言ってその句を挙げられました。ささやかな一コマかもしれませんが人生の一場面が詠まれている句だと思います。

森賀:森澄雄さんの発言についてはよく覚えています。「だいぶ書かれとるなあ」という感じでした。人から聞いてわざわざその号を買いに行きました。ですがそれに対して発言するということはなかったと思います。田中はマイナスなことを言われたときに、言い返さず黙り込む方でした。

満田:田中先生はご自分の人生や時代をたくさん詠まれていると思います。そのままではないですが、むしろそういう句が多いと私には見えます。まりさんの名前は直接出ていますし、「或国の秋草のほかにくみけり」「あそびをり人類以後も鳴く亀と」など、そういう内容は多いと思います。

森賀:はっきりそうは書いてないんですけど、心持を詠んだ句はあるかもしれません。強く何かを思ったときは結構俳句として残っています。同時多発テロのときは、一見そうとは分からないような「梨むく雫や春秋に義戦なし」があります。森澄雄さんの時の句もあるだろうとなんとなく思います。

四ツ谷:自分について言うと、私は人間のため、人生のために俳句を作っているとは思わないんですね。神様のために作っていると思っています。神様ということばを気に入らない方には、人間を超えた未知の力のためと言ってもいい。人間は神様に救いを求めるけれども、神様は人間の人生のことなど考えないと思います。森さんは人間のほうを向いて俳句を作っているのかなという感じがします。裕明が同じ考えであったかどうかはわかりませんが。

高橋:森さんはそうおっしゃっているけれども、森さんの句のいいものは人間を超えたところで作っていたと思う。

満田:箱根吟行のときだったか、はっきりした口調で、「今相当な俳人でも自分のために俳句を作っている人が多い。自分は、違うと思いますよ」と仰いました。その場ではそこで話が途切れ、数日後の句会の後で、ある人が、先生は誰のために俳句を作っているんですかと聞くと、きょろっとした目をされたあと、「まりです」と仰ったそうです。冗談めかしながら、先生は本心を仰ったのだと思います。それと共に四ッ谷さんが仰る人間を超えたもののために俳句を作るということはいつも感じておりました。

上野:四ツ谷さんの講演は「形式を生きる、詩情を生きる」ということで、そういう詩情を重んじるということ自体が田中裕明の人生だったんだろうと思います。そういう意味で田中裕明は詩情を重んずるというところの人生を最終的に描いたという風に思っています。これは森賀さんと田中さんがまだ知り合う前の話なんですが、誰に見せるために句を作るかという話をした際に、私は選者、師匠に見せるために作ると言ったところ、「うーん、自分を驚かすためかな」と19歳のときの田中裕明は言っておりました。



小野田健:裕明さんは古典につながる俳句ということをおっしゃっていたんですが、万葉・古今・新古今、現代の短歌をお読みになっていたことはあったんでしょうか。

森賀:それはかなりありました。岩波や新潮の古典文学の全集が自宅にあります。後鳥羽院などはよく言っていました。中国詩人選集も揃っています。岩波文庫は本棚一つ分ほど集めていました。話をするときに、「あの人はちょっと気ぃ弱かったからなあ」と中世の人など昔の人をよく知っている人のように話をするところが面白かった。近現代の歌人では折口や齋藤茂吉などは読んでいました。




宇井十間:四ツ谷さんの講演についてですが、音楽や絵画の夜の形式のつながりはよく見えたんですが現象学というのはあまりつながっていなかったような気がします。

夜の形式の文章を読んでいて、田中裕明はもっと単純なことを言おうとしていたのではないかと思います。田中裕明の俳句をテキストとして見ると、裕明の俳句は「切れ」の俳句だと言えます。田中裕明はエンジニアでしたので、エンジニアとしての自分の思考形態を昼の形式と言い、夜になったときの「切れ」を追求するときの発想を夜の形式と言っていたのではないかと思います。

こういう主題を書いた人がなぜ季語にこだわるのかが釈然としません。それから、田中裕明をテキストとして読むときに、田中裕明が実作として追求したけれどなしえなかったもの、しかし可能性があったものは何かについてお聞きしたいと思います。

四ツ谷:現象学についてですが、最初は現象学を深く取り上げるつもりはなかったんですね。しかし地図の話がフッサールであることはすぐ分かり、次はメルロー・ポンティじゃないかと気づいた。すると次の時間の逆流の話も現象学ではないかと思ったんですね。普段見ているものを一端取り去って、違う形で本質を見るという考え方は夜の形式と近いものではないかと思います。

昼の形式は、エンジニアとしての思考のことを言うのではないかとのご質問でしたが、夜と夜の形式とは違うと申し上げました。私も仕事中に俳句のことを考えることがありますので、昼の会社の世界が昼の形式で夜の思索が夜の形式であるとは必ずしも思いません。

季語を彼が大事にしたということは、彼が保守的だったこともあるかもしれませんが、現象学的還元や本質観取などをするためには、クレーの言う意味で前史を持っていることば、なるべく古臭い言葉、色んな物を負っている言葉の方が還元をかけやすいということがあると思います。しかし無季の句を彼は否定していないと思います。

森賀:私は昔現代詩を書いていましたが、詩は一行目を書くのが難しいんですね。俳句を作っていて思うのは、季語は第一行に当たるのではないかと思います。イメージを膨らませる最初のきっかけが季語じゃないかと思います。田中は古典が好きで和歌などにだいぶ親しんでいましたので、言葉の持つ広がりや奥行きや負ってきた歴史にとても敏感でしたし、過去の古い俳句などもだいぶ知っていましたので、季語の持つ力をよく知っていたのではないかと思います。季語をおいたときの広がりや働きの面白さ、そしてそういう重みのある季語というものをほっておくはずがないとおもいます。

宇井:何かの状況を作っておいてそこに意外な季語を当てはめるとポエジーが生まれるというのが田中裕明の方法ではないかと思うんですが、それには限界があるんではないかと私は思っています。森澄雄が攻撃したこともそれにつながるんじゃないかと思います。

森賀:そういった目立つ以外の作品も見ていただければと思います。

対中:これは見方が違うだけかもしれませんが、右脳と左脳という言い方がありますよね。右脳は音楽脳と呼ばれますが、裕明俳句は非常に右脳的な俳句であると思います。「先生から手紙」を読み終えたあと、交響曲を聞いた後のように心地よく感じました。ある状況に、意外な季語を当てはめるのが方法であったというのは、ある意味左脳的な捉え方ではないのかなと思います。もうちょっと違うものが田中裕明の取り合わせではないかと思います。関悦史さんは「田中裕明論」の中で断絶というのではない飛躍というものがある、ということを書いておられました。また小鳥や子供を詠みながら非日常的な時空間や天使的なものを表現することができて、そのあたりが若い人々にある可能性を示している、ということを書いてらっしゃいました。

森賀:田中のいた村田製作所はユニークさを一番に掲げているところで、田中は開発部門で働いていました。そういう意味で田中はつなげる方ではなく発想する方に優れていたのではないかと思います。




越智友亮:「夜の客人」を高校生の時に読んだときは距離感などが自分の感覚にマッチしていて良かったんですが、「セレクション俳人」を読んだときに分かりづらい句が多いと感じました。「夜の客人」が分かりやすい句が多く、それ以前が分かりにくい句が多いということは田中裕明の表現が易化して分かりやすい方法に流れたのではないかと思うのですが、なぜ分かりやすい方向に移動したのでしょうか。

森賀:私もそう思います。あんまり頑張らんでも俳句が体に馴染んできたのではないかと思います。苦労せず句ができるようになっていったのではないかと思います。

(記録・生駒大祐)



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