2010-03-21

〔新撰21の一句〕高柳克弘の一句 古谷空色

〔新撰21の一句〕高柳克弘の一句
鳥の行方……古谷空色

  如月や鳥籠昏きところなし 高柳克弘

季語「如月」の光はこうだ。



日の光は各月それぞれの表情を見せる。中で最も鮮烈かつ透明な光は如月のそれをおいてほかにはあるまい。如月の光はプリズムを通しても七色に広がらない。k音の硬質な響きとともに砕け散るのみだ。

砕け散って、鳥籠の内外を隅々まで照らす。

あまりにも明るいので鳥すら見えない。鳥の見えない鳥籠は単なる籠だ。見えすぎてしまって見えないのか、最初から存在していなかったのか。鳥と鳥の影との不在。あるのにない。不安が募るばかりだ。

光が照らせば照らすほどモノの反対側には濃い影が生まれる。だというのにこの鳥籠には「昏きところ」がない。「昏きところ」はいったいどこにいってしまったのか。「昏きところ」カムバック。

ははは、やだな、「昏きところなし」はですね、「明るい」ということをあくまでも詩的に表現しているんですよ。本当は止まり木の影や餌箱の影や、もっと細かく見れば網目格子の影までちゃんと見えているのですが、如月の光の効果を際立たせるために捨象しているんですね。だいたい「~なし」と断定することで一句の効果を高めるのは基本中の基本ともいえる俳句の技術ではないですか。それを真に受けないでも。

……ということはあるにしても、如月の「き」は切先の「き」、「~なんだけど本当は~なんですよ」のような弥生卯月めいた曖昧さを許容しない鋭さがこの早春の光には備わっている。如月の光であればこそ、敢えて捨象されている存在について論じてみたいと思うのだ。

いや、本当はあるのだ、「昏きところ」は。

それは読み手の心の中にある。

そもそも「昏きところなし」と言われて「いや、あるだろう」と逆らいたくなるのは自分が内側に抱えている「昏きところ」がゆらりとうごめくせいだ。

鳥籠に居場所のない鳥は読み手の心に舞い降りて、というのはしかし「昏きところ」にはふさわしくない。ふさわしいのは何かと言えば……テヅルモヅルなどにも惹かれるがわかりやすいのは鯰か。あの大きな口でもっていかにも何か不平を唱えそうだ。

不平。耳を澄ませてみたら案外と「昏きところ」のない世界に対する憧れだったりするのだが。なにしろ普通にしていたらこの世界には「昏きところ」が多すぎる。都市化によって暗がりや闇が消えて妖怪や魑魅魍魎の跋扈する余地がこの世から消えてしまった、というのが世間一般における昨今の共通認識だが、そのぶん人心の闇が深化増大したので差し引き零どころか「昏きところ」はむしろ殖えているのだ。

「昏きところなし」と言われると反発するが「昏きところ」にじっさい辟易しているのでもある。そのような立場から読むと高柳克弘の俳句には大いに救われる。






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