2010-03-14

〔新撰21の一句〕鴇田智哉の一句 しなだしん

〔新撰21の一句〕鴇田智哉の一句
人参へのリーチの仕方……しなだしん


人参を並べておけば分かるなり  鴇田智哉

百句の掉尾を飾る一句。

思わず、何が「分かる」の?と訊きたくなる。この句を見たとき、私もひとりでそう突っ込んでしまった。
この句の初出は私の知る限り、あるメール句会での出句であり、その後に週刊俳句第87号(2008年12月21日)に発表されている。
ちなみにこの発表作品のタイトルは「人参」であり、掲出句はこのときも末尾に据えられている。こうしてみると、この句への作者の思い入れと意志が垣間見える。


鴇田智哉の俳句は、小論の如月真菜が書く通り「独特の表現」であり、巻末の座談会で小澤實が「一句読めば鴇田さんの句だとわかる。こういう作家は珍しい」と評した通り、異色の世界感を有している。
同座談会では様々な比喩が飛び交った。「脱力系男子」「生身の人間としては存在していないような」「プログラムはあるけれど技術はない」「平成様式」「色のない世界」「確信的低空飛行(石田勝彦)」「不愉快系俳句」など。
分からないではない。高山れおながいう「イライラするところも確かにあって」は的を外していないし、鴇田の作品のその多くは主体が省略されており、捉えどころがないようにも感じる。季語が効いたのか疑問に思うことも不思議ではない。

だが逆に鴇田俳句の魅力は、その言い切らない、半分ほどを詠み手にゆだねるような句の作りにある。
一度読み、もう一度頭から読みたくなり、そして何度も読む。こうやって「ループ」が始まる。このループは読者なりの解を得るか、解を諦めるしか脱する方法がない。
このループ脱出のキーは、季語にあるのではないかと思う。

鴇田の作品は、実は、季語を信じるところから始まり、作句姿勢の中心には季語があるのではないか、と私はとつねづね思っている。
作品化にあたっては、一旦対象から思考を遠ざけ、とんでもないところをまわって、季語へリーチし、作品を成す。本当に必要なもの以外を徹底的に排除し、省略し、足していいものを少しだけ足し、十七音に整える、そんな風に鴇田の作品は出来あがっているのではなかと。

掲出句も「人参」という季語を信じ、季語の本意を踏まえると作者の言いたい情景が見えてくる。

土の着いた抜きたての人参である。
たとえば――、その人参は玄関脇の日の当らないところに並べ置かれていて、留守だったその家の住人が帰ってきたとき、分かる。あの人が来たのだ、と…。
もしくは――、泥着き人参は、民家の菜園で採れたもので、並べ置かれてあると、知っている人たちは値段が書いていなくても、見合った代金と引替えにその数本を持ち帰る…。
こういった風景は武蔵野あたりでも、鴇田の故郷、千葉あたりでも見かけることができるだろう。
もちろん、この解が正しいという自信も全くないのだが、少なくとも「人参」という”人”の字を持つ根菜の、その季語の本意を信じれば、様々な情景の想像が膨らんでゆく。

俳句という短詩形の可能性を追究する鴇田智哉の、現時点での真骨頂といえる一句である。






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