2010-03-21

【週俳2月の俳句を読む】 堀本 吟

【週俳2月の俳句を読む】
週刊俳句2月10句抄、寸感……堀本 吟

A群 連作俳句として読む

俳句発表のさいには慣行として題がつけられる。この題は微妙に鑑賞のしかたの影響してくる(のではないだろうか)。あった方がわかりやすいときと、題のないほうがいいときがある。と、今更のように考えたが、又心理的に題のある方が取っつきやすいのも然り。

今月の、下記の三作には、題の必要性を感じた。というのは、あきらかに場所、対象、ヒトが限定されて作られているからだ。そこに発想の素あるいは帰結があるからだ。モチーフにあっても主題にあっても10句相互に関連がありひびき合っている。題があるから、強引に、これは浅川マキという歌手の雰囲気だ、とか、あれは大蛇が悲しんでいるのだ、とか、ここは日本じゃないらしい、とか、想いつつ、こちらも想像をたくましくする。これも読み方(読まされ方)の一つである。他方、想像力の限定と言葉のゆるさ、放恣さが、作品の領域をゆるがせる。

◎ 浅川マキ追悼  守屋明俊

浅川マキはなつかしい歌手であった。ファンそれぞれの思い出を書き留めた詩句は、おおむね叙情的でいかにも、彼女の和製ブルースに、あるいはアンダーグラウンド演歌に似合っている。こちらのマキ追悼は、恒例の大晦日の澁谷のライブが今年もあったのだろうか?その{新年の酒}をのみながら別れたたファンが、東京公演から、喪明けの3月始めまでの時間の推移を連作にしている。

年の酒「またねえ!」と貴女凍てるなよ 守屋明俊

私が、きいた話では、ある時には、真っ黒のドレスを着て、ステージにでてきて、ドスのきいた低い声で「・・待たせたわねえ」と言ったのだそうである、守屋の時は「またねえ」、でありそのまま帰ってこなかった、彼女の公演は1月17日、自分の唄の世界に消えてしまったのか?咄ができすぎていて、ともいえるが、「またねえ」にたいして「貴女凍てるなよ」・・こういうファンの優しさがいい。会話言葉、思いはもっと凝縮できるかと想うが、追悼句は規矩を毀すほど思いがあふれていても、つまり下手でも好いのだ。

さよならの唄多かりし氷柱かな   

その通りである。「ちっちゃな時から」という曲を想い出す。「さよなら」と「氷柱」は水っぽいところが合いすぎなのに、言葉のあたたかさ冷たさの触感がちがう。これが面白い。

思春期が死春記と出る夜の梅    

いかにも、マキのうたにふさわしい。「朝日楼」のことかしら、ワードの変換力というべきか「死春期」・・。「夜の梅」これは花やかで演歌風だが効果的。このように、意味をたくさん表面に出してくる句を「俳句」のワザだと想わないヒトもいるとは想うが、私はこういう方法が俳句の作法に不可避になる心理を尊重する。

薄命の地球金縷梅(まんさく)咲きにけり 

これは、うつくしい。地球という唐突なあかるい宇宙感覚が、この歌手にはミスマッチみたいで、それだけに「薄命」という運命が救われる。

啓蟄やマキの喪明けの線路の音  

夜が明けたら、一番早い汽車に乗って・・切符を用意してちょうだい。ほんと、ほんと、よ。一枚でいいからね。・・・・「啓蟄」という生命感ある季語で救われる、宇宙のどこかの駅で降りて、永遠にうたっている浅川マキの姿。自分のための追悼歌をうたってきたような曲ばかりだったが。
    
◎ 悲しい大蛇  裏 悪水

わたしは蛇は嫌いなのだ・。が・・・。「男根的想像力」にかられた力作の象徴物にさせられた野生動物の悲しみに同情する。それに免じて、「蛇」の文字のうごめきを追う。

愛撫を許せばまぶしいさくらがみんな見える  裏 悪水

この、10句の主人公が大蛇なのだろう。大蛇を愛撫する美女の背後の桜の花片がいちまいいちまいがまぶしくみえるほど大蛇は快い。「まぶしい桜がみんなみえる」、というところで、一気に幻想世界があらわれ、これは、同時に大蛇を巻きつけて愛撫している美女の快感のメタファでもあるだろう?泉鏡花の異類婚の世界を絵解きしているか、とも。

主、客、作外の視線と、三様の位置から満開の桜の中でくりひろげられる妖しい光景 は絶景というべきだ。

美少女の嘔吐がほしいな   
中指が濡れているから知覚

大蛇はこんなことも考えているらしいが、これらは理解するときに特殊な身体感覚を求められるから、鑑賞するのがしんどい。が、構成上はこのていどの倒錯趣味は認めよう。まあ、私の趣味じゃないけど。

それもよかろう男根は懐かしい虹

「男根」と「虹」はイメージのつきすぎ、でもわかりやすい。
虹と蛇の卍絵図は、たしか岡井省二の句集にあった。私も作ったことがある。

けれどこのヒトのは男根的想像力が自然界全体をおおっている、あの大空にかかっている反り返った虹がねえ。大きいことはいいことだ・・という人もいるけどけれど。

大蛇=男根=虹が大きすぎるのも私の趣味じゃない。

姉の人体図眠れば赤くなる

この風景は、夕方はやくも見える星座か。でも実際にはあり得ない女体の美しさ、暗闇にあるほど輝く姉・・をおもう性的な禁忌の感覚。「姉」も夢の中で欲情しているだろう。

金属の揺れているしずかな臓器だ
 
臓器に金属がのみこまれているのだろうか?臓器が真鍮のような金属なのだろうかこの大蛇悪食というほかはない。が、妙に肉感を放っている金属だ。逆に、「臓器」というのオブジェめいた姿形も浮き出される。

悲鳴、無意味な恋人か

「無意味な恋人」という虚の像をだした、ここで、10句の世界にふくらみがでる。
 虚像だから悲鳴も無意味、けっきょく飲み込まれたのかな。大蛇との恋は残酷な結末を呼ぶ。

灯しても灯してもうしろめたい幸福

これは、いい句です。明るすぎると大蛇はかえっておちつかない。
あるいは燃えても燃えても、充たされない、だいたいこういう恋は正しい恋ではない。では、正しい恋とは・・?

こんな悲しい大蛇を少年と見ている

この少年愛もいずれ破局をむかえるでしょう。恋愛は大事なテーマです。その果敢な志をよしとしよう。「悲しい大蛇」とそれを巡るかなしい恋物語がおいつめられていく。

筋の粗さが後味に残るが、こういう力作に一句一句の完成度を問うなどという野暮なことをいいたくない、たのしい悲しい連作、作者の名前が暗黒俳句の世界の元締みたいで。ある種のセンスを感じる。男性なのか?女性なのか?妄言多謝。

◎ アセアン  西村我尼吾

場所の確定された一時滞在者の日常詠、海外詠の連作だと読んだのだが、その国に食い込んだ特殊性の表現という意味では、私には今ひとつ物足りなかった。でも。一句にそれがあらわにされていなくても、なぜか「アセアン」=東南アジア諸国連合国の事情に結びつけて読んでしまう。タイトルの強制である。

]政情不安の土地にいたにも関わらず、どれも一幅の静止画のようだ。季語がその日本的な感覚のままつかわれ、「軍用機」「ラオス」「タージ」「モスク」などで、現場のオリエンタル風景が浮かび上がる。私の好みからすればもう少し景色を動かして欲しいもの。作者の視線は、その場所には入り込んでいない。題を関した意味が活きていないような気がする。でも、キチンと定型の規範をまもっている、俳句性を疑わない書き方とはこういうものかもしれない。

「大蛇」とか「マキ」のほうがかわっているのだ。

だいだいに暮れゆくラオス蚊を追ひて 西村我尼吾

暮れてくると蚊が出てくる。日本も同じ、当地の夕焼けは街全体を染めてしまうらしい。この「ラオス」は抽象的すぎる。でも、「ラオス」についてはこの夕焼けと蚊がうかんでくるのだから、実感なのだろう。ラオスはタイやカンボジアに国境を接している国。

草なき街空き地冷たく黒牛群る

この「空き地冷たく」というのはどう言う意味かしばしたちどまった。

「草なき街」とは街全体が人工的、あるいは戦乱で焼き払われている、という意味だろう。ラオスには草が茂っているところはあるに違いないが、そこでとくに「空き地が冷たい」というのは?どうもわからない。「冷たく黒牛」というのでも、また。その地の風景の特殊性をいますこし浮き上がらせた方がわかりやすい。しかし、現場を超越しているので、かえって、地球上にあるこの街の異常さに気がつかせられる。黒牛の「黒」がくっきりはりついたようにうきあがる。

タージ青芝白亜のモスク鷹舞えり

ここインド、タージ・マハルには草があるようだ。「青」=緑。白亜の「白」。写生句にしてはキッチュ(つくりもの風)、伊丹三樹彦の写真みたいに、輪廓がくっきりしている。

閲兵「気をつけ」淑気の立木凸凹と

当地のお正月は、このようでもこれで平和なんですね、立木も衛兵のように屹立している、これも絵のようだ。

霧の原野少年ところどころジャンプ

これは、ゆいいつ童画のようなやすらぎを感じさせます、いや、不穏の前触れかもしれない。なにをしているのだろう。少年は。この連作ではこの句の奥行きを頂きます。

結局作者は「アセアン」のどういう風景に食い込んでゆきたかったのだろうか?そこを明快にする構成の工夫があれば、ユニークなかたちで世界の現実が活写できた、と思う。


B群 構成感は希薄。
一句としてたのしむ。

◎ 春の宵  小倉喜郎

薄氷やロールケーキのしっとりと 小倉喜郎

このように取りあわせると。「薄氷」と「 ロールケーキ」に微妙なひびきあいが生じる。

木を抱けばまた眠くなり草団子

「木を抱く」とは奇妙な動作だ、抱きかかえるのとはちがうだろう。でも「草団子」田舎風なおっとり感と似合っている。

朧夜の戸板で作る小舟かな

これは、「戸板」をバラバラにして「小船」を作ったのだろう。しかも「朧月」の夜に。なんのために?物語がつくれそうでつくれない。失敗作か成功作か私としてはよみとれないが、面白い後味だった。

◎ きさらぎ  三浦 郁

春嵐メレンゲつんと尖りだす

卵白を泡立てるときのボールの中は、嵐のようなすばやい旋回が生じてくる。腕が痛くなる。やがて、つんと角ができてきたときのうれしさ。ここまで泡立てておけばスポンジケーキが良い具合にふくらむわよ。窓の外の暖かい春嵐と良く釣り合っていて現代キッチン俳句は安定しつつ新鮮である。

生成りやらオフホワイトやらあたたかし

色の重ね方は、西村我尼吾の様にくっきりした単色をぶつけるのではなく、同系色を言い換えて重ねている。布であるとは書いていないのに、春先のブラウスの感じが浮かんでくる、それを着ているふっくらした女性の姿まで。自分にはなかなか発想できないことなので、印象に残った。

別の貌してをり夜のふらここは

夜の公苑の異界性を抜き出している。昼閒ヒトに充ちているときには気が付かない。子ども達に使われてこそ活きる遊具の孤独。

ハイヒールの踵がもげて蝶生まる

べつべつの時空なのにこのナンセンスな因果関係は、まえから決まっていたかのよう。

◎ 華甲の頭   伊藤伊那男

「華甲. 【意味】 華甲とは、数え年で61歳。還暦。華年。 十 が六つと一つの「一」になり、「61」を表している。 華甲の「甲」は「甲子(きのえね)」で、干支(十干十二支)の最初をさしている。 そこから、還暦と同じく数え年で61歳を表すようになった。」
以上ネットからのうけうり。身につまされる人も多いだろう。
かの人の賀状もう来ずもう出さず  伊藤伊那男

含みのおおい新年句です。

心の臓のみのくれなゐ雪女郎

悪水さんの、「姉の人体図」の句とよく似たシチュエーション。どちらも女体の昂揚する風景。

道問へば上る西入る蕪村の忌

京都の番地や地理はわかりやすい。菜の花や月は東に日は西に、蕪村句の借景が上手い。

◎ おほかたは  田中英花

大勢でうすらひの辺に立ちてをり

小倉嘉郎の「薄氷」とならべて、こちらは、危うい。「うすらひ」とひらがなに
したところに作者の繊細な言語感覚を感じる。

◎ 春夕焼  古谷空色

尻据ゑて湯船きゆと鳴る霜夜かな

姿勢を想像して可笑しい。霜夜という寒さが強調しながら、フロに入っているこの温かさ。意識的かどうかはわからないが、「シリ」と「シモヨ」は音韻では縁つづきのイメージ。しかしきわどい下ネタにおちいるのではなく、そのことが俳諧味の隠し味になっている。

桃の花猫のまぶたのもう閉ぢさう

ふわっとして、わたしも眠くなる。こういうのとても好き

連作の句の解釈のほうに言葉をおおく費やした、それは、やはり、こちらの方に問題作意欲作、読み手の中にも俳句としての評価が自己分裂してしまうものが多かったからだ。それだけにおもしろいのである。

俳句的な世界は、一句でそれだけをたのしませる工夫が基本だ、と思う。いいねえとかちょっと、とか寸言でもってわかる気楽さ・・一句の俳句にはそういう良さがある。作品としての完成度、繊細さはこの一句の方でやはり味読させて頂きました。しかし私は10句まるごと呑んでやるぞ、と言う作者の悪意がたのしい。こういう多様性にであうならばたまにはネット俳句もちゃんと読もうと想って、いる。以上、妄言多謝。 


田中英花 おほ かたは 10句 ≫読む
古谷空色 春夕焼 10句 ≫ 読む
伊藤伊那男 華甲の頭 10句  ≫読む
西村我尼吾 アセアン   10句  ≫読む
三浦 郁 きさらぎ  10句  ≫読む
守屋明俊 浅川マキ追悼  10句  ≫読む
小倉喜郎 春の宵  10句  ≫読む
裏 悪水 悲しい大蛇  10句  ≫読む

7 コメント:

さんのコメント...

ご掲載のことお世話になりました。文中最初部分。

「守谷」とある箇所、校正を見逃しました。
  ↓
「守屋」がただしいお名前です。守屋さん、どうも、すみませんでした。(堀本afouters吟)

Haiku Weekly さんのコメント...

訂正いたしました。

さんのコメント...

裏悪水、さま。
貴方が「 ≠さん 」だったとは「露」知らず。ずいぶん露悪のサガのひとだなあとおもいつつ。

でもこの「連作」は、作者を知らない方がしあわせでした。臓器が金属の大蛇とナニするのはわたし趣味ではありませんが、人体設計図だけのロボット姉とナニする人は、もっと倒錯的。

さいばら天気さん。
こういうのは、匿名罪にはならないの?
著作権を放棄しておられるようだからまあ、わたしはどうでも良いけど。

tenki さんのコメント...

匿名罪って?

罪名が存在しない以上、罪も存在しないでしょう。

吟さんのこの批評、読み応え充分でとてもおもしろかったです。

読者を得て、作者は作者になる。裏悪水さんも、それは同じなんですね。

個人的には、裏悪水さんは、今年いちばん注目したい作家です。

裏悪水 さんのコメント...

何事もない監視カメラに眠る想像力 裏悪水

さんのコメント...

罪も誉れもその模範的テキストがすべて自動的に作れるのが機械頭脳の特権的な能力です。つまり、無偏見無定見のオールマイティの世界が秩序を求めてゆくならば、ですね。


近頃はやりの「非実在的」架空人格。この現象は。生身の脳がそのうち自分たちの世界のモデルとして取り入れるのではないでしょうか?

裏悪水氏は、俳句の取り合わせと二物衝撃の方法をおもうさま無定見にとりいれらて、「
悪」意の正当性を主張されている注目すべき新「存在」です。
わたしは、これから人間の待ちに外出するのですが、街を歩いている人ぜんぶ地球人の振りをした、宇宙人かウェブジンじゃないかとオソレています。「皆さん」のご健闘ヲ願います。(笑)

さんのコメント...

 この「悲しい大蛇」という俳句作品が、われわれのような愚鈍な汗や体臭や五感の産物ではなかった、しかし、よませるものも幾つかあると言うことがわかった段階で、作者が架空の「人物」だとわかった段階での追記。
観念世界と実在的身体世界の、放恣な混在や、あるいは上手く行くならばあたらしい交感の始まり、と言う気がした)。

偶然の成り行きであるが、
一昨日22日に、私が見に行った映画、と言うのが、日本で最初につくられた前衛映画「狂った一頁」(対象15年製作。監督・衣笠貞之介。原作脚本・川端康成。協力、新感覚派映画連盟・弁士片倉一郎)というので、コラボレーションに山下洋輔のジャズピアノのライブ。

トークには、1960年代、前衛アートの運動の始まりを、精華大漫画学部の教授高取英、ロックバンド頭脳警察のパンタ氏が語る、「前衛とは何か」トイウテーマ。鄙には希なる、贅沢な文化イベントでござんした。

映画は、精神病院の「小使い=用務員)の夫と、狂った患者の妻、様々な精神病の患者の日常が、いろんな生態とともに羅列されている。詳しくは書かないで置くが、今回のわたしのウェブ体験のなりゆきにいくぶんかさなるところがある。
 筋は極めて粗い。映像の重層とか、時間的秩序を無視したショットの連続によって、正常と非正常の時空、妄想と現実の混在が、そのことによって、「リアル」に描かれている。
日本映画の技術。をみなおしたのと、当時の「新感覚派」の提案している文学的モチーフの重大さを見直した、

山下洋輔のライブも音楽の解体、音の解体をなまで見せてくれる(しかもりっぱな音楽である)。それと唐十郎やオノ・ヨーコとの出会いのエピソードを交えながら60年代70年代の前衛芸術の時代を語るトークが素晴らしかった。

 デ、私はそれを鑑賞し回想しながら、今登場した「裏悪水」というウェブ人が、「俳人」として活躍しはじめたなら、日本俳句界は宇宙人に「非実在」そのものであるウェブジンに俳誌ジャックされてゆくのではないか、とおもったわけである。
 コンピュータで、創作も批評も、それにたいする社会的な価値評価もぜんぶできるようになったら。

 浜いぶきさんも、もう一人の人も、一句二句取り上げて褒めている。わたしなどは、大量の言及である。いぶきさんは「楽しく混乱」したそうである。

 どういう仕組みでああいう言葉ができてくるのかはよく分からないが、「天狗俳諧」の緻密なものなのだろうか?なかなか佳くできている、し、いくぶん想像力を刺激する。(地上の人間が考え得る範囲のセクシュアリティではあっても)。
 もんだいはすでに人工頭脳にあっては言葉の編集力、身体の頭脳ではそれが想像力、ということになろう。
 編集は地上に現れている現象のリメイク、しかできないのだから、われわれの使う言葉や感情をうっかり当てはめてしまうのである。すっかりだまされた私などはもう如何ともしがたい。読まされることによって、望んでもいない「俳句」や・「作者」という人格まで想像してしまった。まさにかなしき熱帯かなしき大蛇、かなしき野生の原感覚を体験した。
ある意味では新撰21よりもこっちの方がずっと新鮮であろう。架空言語の示す文明観の中身は私たちと違わないが。自律性では情報編集力は、身体の脳の想像力をこえている。面白いにはちがいない。楽しく混乱させられる面もたしかにある。。

 そして、しかし、やめろというのではないのである、そういう問題ではなく。どんどんいたずらをしても、もう正体がわかれば驚かないが、ほんとに人種の違いとか性別の違いを解消する時と同じに考えてもいいのだろうか?
その言葉がすべて架空の存在としてうまれているのならば、そこに対しては批評は無意味なのである。批評はまだいまのところ、虚妄のテキストと実在の身体的精神世界を、つなぐ梯として必要でなる。批評のモラルはまだ身体の側に属する。というのが、こういう事態が殖えてくる時代に対する、わたしの反応である。

評をもとめられた読み手が誠実に向き合わねばならないのは、「作品」なのか。「裏悪水」氏なのか。その操作器械である「ロボット」なのか。考案し編集した山田露結氏なのだろうか?。はたまた、いわゆるインターネット俳句と言う新ジャンルなのだろうか?