2010-03-21

【俳誌を読む】『塵風』第2号 榊倫代

【俳誌を読む】
人称がカチカチと転換するイメージ
『塵風』第2号・高野文子インタビュー

榊 倫代


『塵風』第2号は2010年2月28日発行・168頁。頒価1,000円。

発行人斉田仁をはじめとする同人誌。表紙写真に鬼海弘雄、題字は北村宗介。俳句雑誌のイメージを軽々と飛び越えた、多彩で充実した内容。

特集「風景」は、論考や随想の内容にバラエティがあり、楽しく拝読。特に山口東人「地下室のメロディ~水路の風景をめぐって~」は読みごたえがあった。



高野文子インタビュー「もの・しぐさ・身体・視線」

漫画家・高野文子のロングインタビュー。インタビュアーの塵風同人、振り子・啞々砂両氏とは、古くからの親しい友人であるらしく、あちこちに話題がとびながら終始リラックスムードの対談になっている。高野文子ファンには非常に興味深い発言がいくつも。

高野  鍋釜を描いたりするのって、読者に手触りを思い出してもらう。頭じゃなくて身体で。そうするとストーリーに無理なくついてきてもらえるんですよ。読者に「あなたが触ったときのこと思い出してくださいね」って最初にやっておくと、そのあと、どんな話がどう展開しても付いてきてくれる。
 ごはん食べるシーンや、トイレを描くのもそれ。身体でわかること。たとえば、いま、こうやって壁に寄り掛かって話していますよね。どのくらいの圧力で背中が寄っかかってるかみたいなのを記憶しておく。いつでも思い出せるように。読者が我がことのように読んでくれるんです。まずは体で気持ちを、というのが判ってきました。(105頁)
インタビューのタイトル「もの・しぐさ・身体・視線」にかかわる部分。

「玄関」の冒頭を思い出した。天井の木目→投げ出された手足→少女の額、の順で描かれた、眠る少女の姿。夏休みの終わりの気だるい手足の重みも、畳の感触も、室内から見る表の明るさも。「ああ、なるほど確かにこれは知っている」と思わされる。

膝をついて中腰になった「るきさん」がお茶の残りを、くるくる、ぴゃっと庭に捨てる様子。

「黄色い本」の始まりの、バスの中で頁をめくる手(読んでいる私の手とほぼ同じ大きさだ)。

「頭ではなく身体でわかる」「読者が我がことのように読んでくれる」が非常に腑に落ちる。身体感覚の共振から、物語世界への共鳴。
振り子 文子さん、古武道の居合いをやっているのよね。
高野  そうです。十五~六年やっていますね。健康づくりのために入会したんですけれど、そこにはオジさんがいっぱいいて、動いていた。ひたすら観察しましたよ。眼で見て紙にうつす。お稽古中ならじろじろ見ても怒られないしね。
 身体で描く方法をとっていくと、私が判ることって女、子ども、お婆さんまで。男の絵を描くとたちまち浮く。これが欠点。ストーリーに広がりが出ません。弱ったなあと思ってたとき、ちょうどいいぐあいにオジさんたちの団体に参加させてもらって、そこで「あ、こういうふうに動くんだ。これはもうひたすら観察するしかない」って。(中略) でも、やっぱり上手くないですね。女の人だけのところだったら、なめらかに動くのに、線が省略されているのは、やっぱり踏み込めなかったから。そうなってしまうんですよ。(後略)(106~107頁)
ユリイカ2002年7月号「特集*高野文子」でも「男はヘタですね。これは観察してどうなるもんじゃないですよね。なんというか、筋肉が教えてくれないんですよ。」(58頁)と語っているが、いやいや、でも「黄色い本」のお父さんなんてかなりリアルじゃないですか? 脛毛の脛をなでるところなど特に。

極端に線を省略したものに、この1月に出た福音館の月刊絵本こどものとも「しきぶとんさん かけぶとんさん まくらさん」がある。これがまた、これ以上ないというぐらいシンプルな線と形で描かれているのに、確かに「身体でわかる」。頭をのせた時の枕の沈み具合とか、ぴったりと布団を体に添わせた時の感触とか。
編集部 高野さんのマンガの視点は、俯瞰したり、見上げたり、離れたり、接近したりと、つぎつぎに移っていきます。描く視線がどこに行くかということに惹かれるのですが、これはどういうことなのでしょう。 (中略)
高野  自分でもはっきり判っていないんですが、一人称、二人称というのがあるじゃないですか。あれと関係あるみたいな気がしてるんですよ。で、セリフを言っているのは誰?みたいな。人なのか、カメラなのか、物なのか、神様かみたいな。それのことだときっと思うんですが、それだけはマンガと小説はルールが違う。映画ともちょっと違うみたいですね。これはどうも人称とか考えると、マンガだけのルールというか文法みたいなものがあるみたいですよね。
振り子 俳句だと、そういう人称のブレがあるのはとんでもないってことになるんだけど。
高野  ダメなの?(語気強く)
振り子 やっぱりだめですね。
(中略)
高野  劇画・マンガでいうと、大友克洋さんのような劇画系の作家たちは、マンガの人称はあんまりないんですって。映画の人称を借りて作っているということらしいんですね。私の場合はどうもそうじゃない。マンガ特有の人称があるんじゃないのということだと。
振り子 『高野文子の作品』というカギ括弧付きの人称。
高野  だから高野マンガを映画を作ってるカメラマンが評論すると、ちょっとピントがずれる。違うらしいんです。映画だと思って読んだら、やっぱり違うらしいよって。「映画監督はこういうものは作んないよね」って、まえに言われて判ったんですけど、自分では考えてなかった。(107~108頁)
独特とも言える視点の移動や、構図の妙、作画上のトリックなどについては、これまでも数々論じられてきたり、作者自身も語ったりしているのだけれど、「人称」という言葉が出てきたのは初めてではないか。

人称がぶれるというよりは、カチカチと転換するイメージ。高野マンガは特にその頻度が多く、目まぐるしいのが、魅力でもあり人によっては読みにくいと感じる理由? もう少し考えてみたい内容。

後記によれば『塵風』第2号の発行部数は400部。高野の愛読者が正確に何人いるかはわからないが、400部じゃ殆どの読者には届かないだろうなあ。うーん勿体ない。

2002年の「黄色い本」発売後は「もう無理ですよ、マンガは」(前出ユリイカ)と語っていたが、ここのところ、長嶋有「ねたあとに」の挿画の新聞連載、こどものとも、と活動を活発化させていることは感じていた。4月からはいよいよ文芸誌「monkey business」で新連載も始まるらしい。数年ぶりの新作でどんな新しい世界を見せてくれるのか、今から期待が高まる。



以下、同人欄などより好きな句を。

寒鯉の爛々として裂かれたる 斉田仁

正月や東京タワーの脚を見て 雪我狂流

陽炎が象を溶かしてサーカスが来る 宇野亞喜良

冬日向ジャングルジムを出られない 啞々砂

右肺のひそひそ話冬木立 井口吾郎

空蝉の爪がこの世にひっかかる 大越洋子

手のひらにのりて頭蓋や万愚節 笠井亞子

水鳥や哀のかたちをして浮かぶ 小林苑を

審問の机上の百合の花粉かな 月犬

少しずつかたちのちがふ桜えび 東人

新涼や骨のしくみのまま歩く 中嶋いづる

老人も砥石も乾く南風 長谷川裕

結界にがぶりと水をのむ犬よ 振り子

かはほりを見上ぐるときの喉仏 村田篠


『塵風』についてのお問い合わせはこちらまで≫yutenji50@gmail.com


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