2010-03-07

川柳小説 小島六厘坊物語 小池正博

川柳小説
小島六厘坊物語

小池正博


小島六厘坊(こじま・ろくりんぼう)の話をお聞きになりたいんですって?六厘坊を直接知っている人も少なくなってきましたからね。六厘坊のことは親友だった川上日車(かわかみ・ひぐるま)君の方が詳しいですが、私の知っている範囲でお話してみましょう。

明治になって新川柳が起こったとき、関西では六厘坊が基礎を築いたのです。

小島六厘坊は明治21年に大阪に生まれました。父は小島洋服店主で、小島銀行を経営し、大阪府議会議員にもなった人です。息子の六厘坊は本名を善右衛門と言いましたが、彼はこの名を嫌って、親しい友人たちには善之助と呼ばせていました。市岡中学の出身です。小島洋服陳列場では句会もしばしば行われ、川柳人の間では「陳列場」で通っていました。そう、場所は今の心斎橋北詰ですね。

六厘坊は子供たちにも人気がありました。彼が通りかかると
「あっ、六厘坊さんだ」
と六厘坊の周りに子供たちが集ってきます。

「六厘坊さん、どんな川柳つくったの」
「悶えの子血の子恋の子おかめの子」
「なんでおかめの子なの」
「与謝野鉄幹という有名な歌人がいるんや。その人が《われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子ああもだえの子》という歌を作っている。ぼくはそれを川柳に作りかえたんや」
「つまり鉄幹さんのもじりやね」と別の青年が言います。当時、与謝野鉄幹は「剣の子」で虎剣調と呼ばれていました。
「六厘坊さん、いっしょにいるお友達はだーれ?」
「おれが七厘坊」
「おれが八厘坊」
「おれが四厘坊だ」
「みんな六厘坊さんのもじりなの」
「ははは、そうだな。君も大きくなったら川柳を書いてみィ」

六厘坊の影響で彼の周囲には銭に関係する号をもつ者が多かったのです。七厘坊というのは川上日車です。「寒浪」と号していた私が「半文銭」(はんもんせん)に改号したのも六厘坊からヒントを受けています。

明治39年、関西川柳の大同団結がありました。六厘坊が柳壇を開いていた「大阪新報」(後の「都新聞」)、「浪花樽」という柳壇を設けていた「大阪日報」のほか、柳尊寺派・読売派の投書家たちが、御霊神社の東側、五二館楼上に集まったのです。中心にいたのはもちろん六厘坊(当時18歳)です。西田当百(にしだ・とうひゃく)が六厘坊と出会ったのもこのころで、当百(当時35歳)は六厘坊があまりに若いのに驚いたようです。

明治39年6月、「葉柳」(はやなぎ)が創刊されます。この「葉柳」が大阪の天地に川柳らしい川柳の芽を植えつけたのです。「葉柳」のことを知っている人は現在の大阪の川柳界には稀になりましたが、六厘坊の功績は忘れてはいけないと思います。

六厘坊は豪傑肌のところがありましたから、傲慢と思われていろいろトラブルも起こしました。情歌会の席上で殴られた事件は特に有名です。「陳列場」の2階ではこの話で持ち切りでした。

「六厘坊が殴られた」
「どこで?」
「情歌の会の席上でや」
「あんまり情歌や和歌をおちょくりにいったりするから、心配してましたのに…」
「あっ、六厘坊さんが来はったで」
「君ら、何騒いでるねん。あんまり騒ぐから、心斎橋の小島陳列場は、まるで梁山泊みたいやて言われるんや。」と六厘坊の登場です。
「私ら憤慨してるんですわ」
「僕はそれでも、転んでもただは起きへんで。情歌の宗匠が仲裁に入って、その縁で情歌の連中が川柳会に顔を出したりして、かえって賑やかになったんや」

情歌(都々逸)との騒動はこんな具合でしたが、似たような話で、明治39年の春、前田某氏の歓迎短歌会の際にも、どこで知ったのか、六厘坊は会に遅刻して参加しました。

「私は小島魔王というものです」といきなり挨拶して、席の中央にいた私を見つけると「やあ」と言ってズカズカと上座に割り込みました。歌の批評が始まって、名の知られた歌人もいたのですが、「私が披講しますから、気に入った歌があったら言ってください」と言って、六厘坊が歌稿を鷲づかみしたのには驚きました。私は内心ハラハラしていましたが、六厘坊の批評は痛烈で、主賓の前田氏の歌に「葉づれの風」とあるのを酷評しました。

こんな調子ですから、敵も多かったのですが、才気煥発、天才肌の人物で、関西の川柳界をまとめるだけのスケールの大きさを持っていました。

その頃の川柳句会の様子は今と大同小異ですが、頂戴選(ちょうだいせん)と言って、佳句がでると「六厘坊頂戴」とか「半文銭頂戴」など筆名を冒頭に置きました。句会場の前を通る子どもがそれをおもしろがって、「ロクリンボー、チョーダイ」などと真似をして走り過ぎていきました。うどんが出るのが恒例で、あるときうどん屋の手落ちで箸を忘れてきましたが、箸が来るのを待っていると冷めてしまうというので、六厘坊が二杯のきつねうどんを箸なしで曲食いをしてみんなを笑わせたこともありました。参加者はだいたい十五、六名で、一題ずつ作っていって、一晩で五、六題くらい進行しました。会費は十銭で、茶菓ときつねうどんが出ました。酒が出なかったのは、みな若くて少年時代だったからでしょう。

六厘坊は常々言っていました。

「川柳も文明開化せなあかん。いつまでも、梅は咲いたか、桜はまだかいな…ではいかんのや」

そんなとき、阪井久良伎(さかい・くらき)が大阪にやってきました。彼が久良伎派だった渡辺虹衣(わたなべ・こうい)の宿へ泊まったのを、花岡百樹(はなおか・ももき)の紹介で六厘坊は単身出かけたのです。負けず嫌いの六厘坊は新川柳の大家・久良伎の前でも頭を下げませんでした。

久良伎「君が六厘坊君か。ずいぶん若いな」
六厘坊「川柳に年は関係ありまへん」
久良伎「いや、そうとも限るまい。川柳は何といっても江戸のものだよ。江戸趣味が分かるには経験がいるのさ」

そこで出たのが「月の嘘」「樽神輿」などの題でした。久良伎にしてみれば、生意気な青二才の六厘坊を困らせてやろうと思ったのかもしれません。会見はしだいに喧嘩腰になってきました。

六厘坊「そんな大昔のものを作るのは愚かや。現代人は現代の句を作らなあかん」
久良伎「江戸が世界を征服するか、世界が江戸を征服するか、どちらかである。六厘坊くん、川柳は『江戸』なんだよ」

後日、六厘坊は「僕を困らせようと古い題を出しよったが、僕は知らんがな、それで負けん気で議論してきた。ハッハッハッ」と笑っていました。六厘坊は剣花坊派と見られ、反・久良伎の気持ちがあったようですが、剣花坊の弟子になることも潔しとせず、関西には関西独自の川柳があると考えていたようです。彼が長生していたら、川柳の範囲をもっと広げたことでしょう。

洋々たる前途を残したまま、小島六厘坊は病に倒れました。明治42年5月、天才六厘坊死去。享年22歳。川柳誌「葉柳」は終刊、六厘坊によってスタートした大阪の川柳界はここにいったん幕を閉じることになりました。次に挙げるのは六厘坊の作品です。

後添は足袋のきらひな女なり

いい役者でしたと話す絵草紙屋

傾城の鏡に夕日落ちんとす

さる程に秋の扇となりにけり

淋しさは交番一つ寺一つ

この道のよしや黄泉に通ふとも

六厘坊の思い出といえば、ざっとこんなところでしょうか。少し時間をとってしまいましたので、私もこれから原稿の執筆に戻ることにします。最近、プロレタリア派の鶴彬(つる・あきら)君が私のことを「芭蕉的神秘主義者・木村半文銭」などと攻撃するので、反論を書かなければいけないのです。六厘坊にはもっといろいろエピソードがありますが、また次の機会にお話することにしましょう。

―昭和11年12月・語り手は木村半文銭(きむら・はんもんせん)―

第150号の目次 に戻る

0 コメント: