2010-04-25

〔俳誌を読む〕『りいの』2010年4月号 近恵

〔俳誌を読む〕
犀の角のように
『りいの』2010年4月号

近 恵


前号まで隔月、今号より月刊。本文52頁。発行所・りいの俳句会(主宰・発行人 檜山哲彦)

表紙も中も墨一色のみのシンプルさ。表紙の裏には『スッタニターパ(仏陀のことば)』より「音声に驚かない獅子のように 網にとらえられない風のように 水に汚されない蓮のように 犀の角のようにただ独り歩め」という言葉が記してある。

今号は『りいの』発足一周年にあたり、約200名という規模の結社の俳誌としては異例の豪華メンバーによる特別寄稿(伊藤伊那男、茨木和生、岩淵喜代子、菊田一平、岸本尚毅、小島健、谷口摩耶、山田真砂年)が目を引く。これがまた、内容が濃いものばかり。



特別寄稿『季語を死語とさせない』茨木和生

都会に暮らしていると、体験した事や、見た事も聞いた事もないような季語というものが歳時記には沢山ある。また、すでに無くなってしまった行事や、文明化・機械化・合理化の波に押されて消えてしまった作事、今では季節感がないではないかと思うような季語も多いと思っていた。
例えば夏の季語とされている「冷蔵庫」「焼酎」「夜濯」など、現代では年がら年中活躍していて季節感を感じる事がないと思っていた季語である。冷蔵庫は年中使われているし、焼酎も年中飲むし、共働きの我が家では夜濯ぎなど年がら年中のことである。肉も年中食べるから「薬喰」なんて季語もどうにも扱いにくい。そういうことはよく耳にする話である。

最近、私の句に関わっての発言ではないが、「薬喰」という季語は、「今は肉なんて年中食べているんだから、もう薬喰は死語です。」というのがあった。肉屋はもちろんスーパーも近くにないところに棲んで山仕事をし、農耕をしている人のいる私の結社では「薬喰」はいきいきとした季語である。私も「薬喰」の句をよく詠むのは「ゲンのこと」を思ってである。
そういえば以前京都の丹後半島へ遊びに行った時、小さなスーパーマーケットまで車で30分も行かなければならないようなところに漁港と集落があって、随分と不便な暮らしをしているなと思った事があったが、そういうところに暮らしていると季節に即した暮らしをするのが当たり前なのだ。引用した「ゲンのこと」というのは、茨木氏は狩猟が解禁になると毎年猪の肉を食べるそうなのだが、「薬喰」をすることでこの一年も元気に暮らしてゆけるようにという願いもあるのだそうな。いわゆる「ゲンのこと」なので、毎年欠かしたことが無いという。そういう風習のようなものは、季語になっていないものでも各地にあって、生活に根差して今も脈々と受継がれているものも多いかもしれない。となると「薬喰」を死語と乱暴に言ってしまうのはどうも短絡的のように思える。
先人が生み出し、定着させてきた季の詞、季語は言葉の文化遺産だから、それを「死語」だといって抹殺してしまう権利はだれにもない、と言える。
確かにそうである。農業が流行り、エコロジーが叫ばれている昨今、にわかに死語化しているような季語の作事が復活する可能性も含め、先人が築いてきた叡智でもある言葉を受継いで伝えてゆくという方向性も必要なのではと考えさせられた。しかし、さすがに「焼酎」や「冷蔵庫」は、死語じゃないけどもう季語から外してもいいんじゃないの?という気持ちは相変わらずあるのである。


特別寄稿『犀の角のように』岩淵喜代子

『りいの』表紙裏の『スッタニターパ(仏陀のことば)』より「犀の角のようにただ独り歩め」を引用し、心構えを語る。
ほんとうのところ、文学作品というものはかなり個人的な存在なのである。サルトルが飢えて死ぬ子供を前に、自身の作品『嘔吐』は無力であると発言したことでさまざまな反響があったというが、文学、ことに俳句はそうした社会性からいえば、寸毫の役にも立たないのである。
役立たず!と罵られている気がしてきた。けれど、ならば俳句以外のことでは社会に役立っているのだ!とも思い切れないあたり、社会の隅で生きる雑草のような自分には切ないところである。
(俳句は)俳句にかかわる人々に対しても役に立たってはいないのである。なぜかといえば、一つの作品がある人達には共感されても他の人には否定されることは往々にしてあるからだ。それほど曖昧模糊と掴み処のないものが、文学なのである。
 (中略)
文学、ことに俳句は無から始まるものなのである。究極のところは自分との対峙でしかないのだろうと思っている。だから、その孤心を備えることこそが文芸にかかわる心構えと言えるだろう。
わかるわかる。句を発表すると往々にしてある。誰からもいいと言われる作品なんて存在しないのではないかとすら思う。よければよいで、受けを狙いすぎているとか言われたりするし。それでも俳句を作り続けてしまうのは、単に人にいいと言われたいからではない。他人からよい評価を受けて安心したいがために俳句を詠んでいるとしたら、それは己の発露というよりも、虚栄心の発露に他ならないのではないか。そしてそれは選をする場合にも共通するのではないか。

だいたい、10人も集まったら一人くらいは気のあわない人もいるし、関心をもてない人もいるし、好きになれない人もいる。全員にいい顔しようとか思ったって所詮無理な話なのだ。そんな当たり前のことをも気付かせてくれる文章である。


特別寄稿『俳句における3D効果』菊田一平

実はこの寄稿を読む少し前に菊田氏とお目にかかる機会があり俳句における3D効果の話を聞いたのだが、なかなかに興味深い話であった。インターネット句会で知り合ったアンカレッジ在住の俳人Rさんの撮る奥行きのある写真からインスピレーションを得たということである。
俳句を始めた二十年前のあるとき、俳句と写真の共通点がとても多いことに気が付いた。被写体。角度。距離。そのひとつひとつの選択の違いが個性的な写真になったり一句となって現われる。ところがRさんの写真にはさらにプラスαの何かがある。
このプラスαが、映画『アバター』の3D画像を見ていて、奥行きの巧みな取り込みによって作られる独特な空気感だったということに気付くのだ。なるほど、ここで3Dということか。 

菊田氏のこの文章は、俳句でこの奥行きを取り込む手法が使えないか、奥行きを出すにはどうしたらいいだろうかと考えているところで終わっているが、この文章を発展させた形で答えを出すように、岩淵喜代子氏の「頂上の石鼎談」のHP中の原石鼎句鑑賞(http://blog.goo.ne.jp/basyou1936/)で「風呂の戸にせまりて谷の朧かな」の鑑賞文として掲載されている。十七文字が立体的な視覚効果をともなった映像となって読み手に迫ってくるというのは、ありがちな心情吐露の作品などよりもグッと胸を掴まれると思うのは私だけではあるまい。


特別寄稿『「忍者の掟」?』小島健

むむう、なんじゃこの「忍者の掟」とは。このネーミングのセンスにはちと笑ってしまった。他に言いようはなかったのか。かといって「守らねばならぬ絶対の掟」を言い表すのに他に適当な言葉もついぞ浮かばず。しかし、本文を読むと、俳句実作者であると同時に指導者でもある氏の主張は、そうだそうだと心当たりのあることも否めず、最近俳句への評について、自分も含めてちょっと窮屈に思うこともあったりしたので、うんうんと思ってしまったのである。

小島氏は、ともすると多様な俳句観を無視して教条主義に陥っているのではないかと、俳句実作指導の一部の在り方に疑問を呈している。
たとえば、季重なり禁止。切字「や」の上下は異なる内容で。取り合わせは両者衝撃的に飛躍せよ。写生のみが俳句。車窓や写真、映像からの作はだめ。振り仮名、アルファベット表記はいけない。口語もだめ。ごとく俳句や擬人法も避けろ。悲しい、淋しいなどの感情用語は使うな。などなど、あまりにも禁止、命令の指導が多すぎます。
芸術すべてに言えますが、いいものはいいのです。右(上記)事項も、決して絶対的な「忍者の掟」ではありません。
ここで季重なりの句として、最初に素堂の「目には青葉山郭公初鰹」を例にあげている。いい句かどうかは私には判断できないが、確かにこの句は私も俳句を始める前から知っていたし、特に覚えようとしたわけでもないが覚えている。初夏の気持ちよさを目と耳で感じつつ、初鰹にありつける幸せのような、季節を全身で感じ取っているような歓びがある。素人でも覚えるとも無く覚えてしまうというのは、やはり名句であろう。小島氏はこう結んでいる。
季重なりをはじめ、各般禁止を強調するのは、如何でしょう。本来ごく初心の方への指導事項が一般化し、それが俳句の魅力を滅殺しているようです。その萎縮効果により表現の自由・可能性を奪ってはなりません。俳句には絶対的な「忍者の掟」はないことを、声を大きく言いたいと思います。
季重なりを例にとれば、季語が重なっていると視点がバラケてしまい、詠みたい事が伝わってこないということもあるが、全てが必ずしもそうと言うわけではなく、うまくいっている場合は更に効果が高まるということも往々にしてあるということだ。

例えば句会などで短時間で選をしなければならないときなど、自分の中にあるその「掟」に従って選別をしていってしまうのだが、本来表現は自由であるべきで、その「掟」は単なるモノサシにしか過ぎず、いいものはいいのであって、その理由が「掟」を守っているからということではないはずだ。そう考えると、いままで自分も教条主義に陥っていたのではないかと反省もしたりして。タイトルのトホホ感を裏切るような鋭い内容、というよりも、声を大にして言いにくいことをよくぞ言ってくれてますというような内容である。



『人生の余得― 一周年に向けて ―』檜山哲彦

文字通り、結社創立一周年に向けての主宰の言葉である。主に一年前の創刊のことばを引用し、再度それを確認するかのように記す。その中で気になった部分。 
人は生きているかぎり、言葉を離れるわけにはいかない。人と話をし、ひとりで考え、なにかを記憶に留めるときも、あるいは夢もまた、身体に棲みついている言葉のなせるわざかもしれないのだ。人間は言葉によって生かされている、と思いながら俳句を作ってゆけば、心が解き放たれ、気持ちが寛やかになろうというものである。
人間を人間たらしめているのは「言葉」である。三重苦のヘレンケラーも言葉の存在を得て人間らしく生きる道を得た。動物がもっているのは映像と音と、それに繋がる行動の記憶であり、言葉の意味を理解しているのではなく、その音のもつ合図を本能で理解しているだけに過ぎない。どんなに知能が発達していても、自ら意味のある言葉を紡いで何かを生み出すことはできないのだ。

まあそれはさておき、人は確かに生きているかぎり言葉を離れる事が出来ない。言葉の通じない外国人が相手で身振り手振りでも、伝えたい事は頭の中に言葉として組み立てられているし、相手もそれを頭のなかで言葉として組み立てて理解する。心が解き放たれ、気持ちが寛やかになろうとまで言われると、まるで悟りの境地のようでありちと大袈裟な感じもするが、それもこれも、作者がそんな心持で詠んだ俳句を読んでくれる仲間がいるから成り立つのであり、俳句では17文字の言葉の組み合わせが、詠まれた言葉以上の意味を伴って迫ってくることがあるのも事実。俳句作りを人生の余得にしてという檜山氏の心持は、評価ばかりを気にして小さく纏まってしまうような気持ちからちょっとだけ解放してくれるようでもある。

ちなみにこの言葉に関する記述は、次の『壺中天風』という連載にも見られる。岩波文庫の茅野蕭々翻訳の「リルケ詩抄」と高安国世訳の「リルケ詩集」の、同じ短詩を訳したものを引き合いに出し、その二つの翻訳詩から感じられる異なるものを「いうなれば、言葉の意味を支えながら、意味を越えたところにある何かである」と書かれている。



続いて、同人や会員による作品集が続き、『俳句ディアローグ』というページへと。これは会員の中から、今回は19人の句を、5ページに渡って主宰が自ら一句づつ添削指導をしている。52頁の俳誌のなかで5ページという割合はけっこう大きい。読むとなるほど、こうすればもっといい表現になるのかとか、そうやって言葉を捜してゆくのかなど、実践的できめ細やかな指導が一句一句になされている。地方に住んでいる会員など、師の指導を直接受けることが難しい会員もいるであろう。大概は俳句教室や俳句通信講座、あるいは結社であれば句会などでされることなのであろうが、それが叶わない会員にとってはとても魅力的なコーナーであり、ある程度経験を積んだ者でも、なるほどなあと思うであろう内容。かなりの労力を必要とされるであろう作業を欠かさず続けているというところに、主宰のなみなみならぬ思いを感じる。

他には、季語になっているような植物や動物などを紹介する半ページほどのコーナー、地方の食べ物の紹介や旅行記など、会員による文やカットなどでつづられている。これがちょっとした息抜きのようで結構おもしろい。結社には様々な才能を持った方々がおり、それを余す事無く生かしているというあたり、運営の面から考えても非常に有意義なことだと思う。また、テーマに沿った短い俳句エッセイも2ページで5名ほど。会員も誌面作りに参加しているという感覚がありありと感じられ、好感が持てる。
結社誌が「お金を払って俳句を掲載してもらえる雑誌」ではつまらない。そのあたりがよく考えられている。俳誌はせめて自分たちの仲間にだけでもちゃんと読んでほしいもの。そういう意味では、とても参考になる誌面であると思うのであった。

1 コメント:

卓田謙一 さんのコメント...

小さな結社の薄い俳句雑誌を取り上げていただいて、ありがとうございました。
特別寄稿を頼んだ方々は、みなさんお忙しい中を快く引き受けてくださり、ありがたい限りです。
これを励みに、これからも真面目に遊んでいきたいと思います。