新撰21の20人を読む 第5回
山口優夢
1
おろしそばの理由は聞けずじまひなり
ナンセンスな句、である。こんなふうにナンセンスなおかしみで人を釣るような句は彼の中でも珍しいから、冒頭に挙げるにふさわしくないと思われる向きも多いかもしれないが、実はただナンセンスだから持ってきたというわけでもない。
たとえばナンセンスと言えば次のような句もあった。
もりソバのおつゆが足りぬ高濱家 筑紫磐井
同じそばが題材でありながら、そしてどちらもナンセンスな味わいがあるにも関わらず、実に対照的な作り方だ。磐井氏の句では上五中七で状況が確定するようにかっちりと描かれており、しかもダメ押しするように下五に「高濱家」と置かれているところにおかしみがある。しかし、冒頭に挙げた彼の句では、書かれている状況にあやふやな点が多い。そもそも「聞けずじまひ」と言っている時点で、彼自身にもその状況がよく呑み込めていないのだと分かる。でも、「おろしそば」の理由が「聞けずじまひ」だ、という小さなことをわざわざ報告したところに「だから、なんだよ」とつっこまれる余地を残すようなおかしみが生れている。
句を書いている自分自身もあやふやで、なんでこんなことになったのかよく分からない。それは、我々が朝、目が覚めて昨夜の夢を思い出しているときの感覚と似ていないだろうか。
逆に言えば、磐井氏の句は逃げも隠れもできない「現実」として現前と読者の前に立ちはだかっていると言えよう。それに対して「おろしそば」の句はなんだか夢うつつなのだ。おろしそばの理由を聞くべき「誰か」の顔もたぶんはっきり思い出せていない。その人が蕎麦屋を出てゆく背中ばかりが逆行の中でシルエットに思い出されるのだ。
夢うつつ。または、夢。これは、彼の句を読み解くキーワードになり得ないだろうか。
からふとの時計屋の火事春のせみ
まへとおなじでふえふきとほる今日明日
逐はるゝも逐へるもいつか黴の花
夢、それも、まるで漱石の『夢十夜』のように奇妙で不思議で、抜け出したくても抜け出せない、いやな夢。その中では、たとえば行ったこともない「からふと」などという土地で燃える時計屋に遭遇したり、笛吹きを見て「まへとおなじ」という感覚を持ったり、誰かと追いつ追われつしているうちに黴の花になってしまったりしている。そう言えば、『夢十夜』には笛を吹いて川に入って行く老人を追いかけてゆく子供の話があったか。
見てゐるや誘拐犯の白い靴
その前もそこから先もない夢の欠片が頭の隅に引っかかっていることがある。その一場面だけは妙にはっきりと覚えているのだが、どうしてそうなったのか、それからどうなったのか、どうしても思い出せない、そんな昨日の夢の断片のような句だ。
白い靴を見ているだけで、誘拐犯は近くにいない。なぜか靴から目が離せない。逃げることができない。こういう場面では、誘拐犯が来るまでが一番怖いのだ。来てしまえば逃げるなりなんなりアクションが起こせるのに、誘拐犯は来ない、そして自分は逃げられず、靴を見ているしかない…永遠に続く白昼夢のような恐怖。夢の中の不条理な一場面。
兄を吊る眉間にπを輝かし
すさまじき母のかんばせながるゝや
祖父連れて歩けば昼の天淋し
家族は、彼の夢に挿入されてくる異物としての他者の象徴だ。他者が名もない他者である限り、それは彼を中心とする夢の世界において風景と変わらなくなる。しかし、家族という、生れつき自分と関わることが余儀なくされている他者が夢に入り込んできた場合、彼はそれを無視するわけにはいかない。いや、もっときちんと言えば、家族以外の他者は彼にとって意味不明な混沌とした存在なのではないか。それはおろしそばの理由も言わずに立ち去ってゆく存在であり、黴の花であり、誘拐犯である。
彼の句が全般的に夢の世界にあるように感じられるのは、彼自身が他者というものを理解できないまま理解不能の存在として句の中に入れ込んでいるからではないだろうか。それに対して、家族のことを詠み込んだ句では、母や祖父らは、かなり異様であっても、きちんと彼の前に姿を見せている。だから、彼は家族を心から愛しているのだろう。
神父らの弱き野球やかきつばた
神父たちが集まって河原かどこかで野球をしているのを、たぶん土手のあたりに腰かけて彼は見ているのだろう。神父たちはきっと野球のユニフォームではなくていつもの黒い法衣なのだろう。なぜユニフォームを着ないのか分からない。なぜ野球をしているのかも分からない。ボールをぽろぽろ落として試合にもなっていない。それでも彼らは野球をやめない。それを彼は当たり前だと思って見ている。
彼にとっての他者は、家族以外は全てこのように、不可解だけれどもアプリオリに存在してしまっているもの、なのではないか。だから、
うつし世に天覧席のありにけり
の天覧席には誰も座っていない。ここでは席そのものが、アプリオリで不可解な「他者」だからだ。はるかな過去にも未来にも、この席は神聖不可侵で誰も座ることはないであろう。では、次の句は?
見られてゐる僕の水没気球から
この句で気球から僕を見ているのは誰だろう。笛吹き?誘拐犯?あるいは母?姉?祖父?
僕には、気球に乗っているのは、無表情な神父たちであるように思えて仕方がない。
作者は外山一機(1983-)
2
美しい僕が咥えている死鼠
確かに、「美しい僕」に対して「死鼠」という選択はどぎつい。「美しい僕」の異様なナルシシズムを消すために「死鼠」というモチーフが使われたのだろう、と簡単に作句の経緯を想像することができてしまうところが弱いとも言える。しかし、それでも僕は、このくらくらと幻惑するような取り合わせ(敢えて取り合わせと言おう)に魅せられてしまっている。
僕が愛しているのは、たぶん、死鼠を咥えながら「自分は美しい」と考えているその、あまりにぎりぎりの場所で行なわれている自己認識のかたち、なのだと思う。「僕」が美しいのは、汚い死鼠と比較して、などではない。死鼠を咥えることによって、「僕」の美しさはようやく完成するのだ。あるいは、死鼠を咥えることによってしか、「僕」は美しくならないのである。誰にこのような陶酔が理解できよう。さよう、誰にも理解できない陶酔こそ、本物の陶酔なのだ。
(まるっきり関係ないかもしれないが、僕はこの句を読むといつもエヴァンゲリオンを思い出す。『新劇場版・破』の中で、エヴァ一号機が三号機のエントリープラグを咥えているシーンがあるのだが、それが脳裏に浮かぶのだ。ちょっとだけエヴァの話に入ると、エヴァンゲリオンは簡単に言えば、巨大ロボットで人類の危機を救おうとする、というアニメだが、それまでの『機動戦士ガンダム』のような巨大ロボット物とはちょっと違って、四つん這いになって走り回ったり、吠えたりというような動物的で生臭い動きを時折見せることがある。前述したシーンもそんな生臭いシーンの一つ。)
彼の句にはこのような陶酔感が満ちており、それが読む者を巻き込んで陶酔させたり、あるいは置いてけぼりにしたり、するのではないか。
共和国へ一糸まとわぬ春来る
空はとかげの色に原爆を落とす日
どの窓も地獄や春の帆を映し
共和国、と聞くと、なんだか『スターウォーズ』を思い出す(彼の句はひょっとしてサブカルと相性がいいのかもしれない)。いずれにしても、「共和国」「空はとかげの色に」「地獄」どの言葉も作者自身の陶酔を介して読者がドラマに引き込まれるという手順で読まれるように感じられる。そんな句の中でも、次の句は作者が陶酔して見せることで、ある典型的にダウナーな気分を余すことなく伝えているのではないだろうか。
ミラーボールとは聖痕をまき散らす
ミラーボールがそういうものなのだと分かったとしても、彼はその場から離れはしないであろう。その、ほとんど命がけのダウナーな気分の中にこそ本当の陶酔があるのだとしたら、彼は逃げはしないだろう。
ひとりだけ菌のやうに白く居り
陶酔は共感を求めない。陶酔は孤独だ。しかし、陶酔は本人も気づかないうちにその周囲に触手を伸ばす。それはもちろん、孤独から逃れるためだ。まるで胞子を飛ばすきのこのように。
作者は中村安伸(1971-)
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