2010-04-25

新撰21の20人を読む 第7回 真面目な顔をした男と物静かな男

新撰21の20人を読む 第7回

真面目な顔をした男と物静かな男

山口優夢


 


落第の一人の異議もなく決まる

彼の句は、一句一句が特徴的なのではない。百句の塊として見たときの明らかな傾向が、きわめて特徴的だ。

それは、表層的な面で言えば切れ字の「や」が一度も使われていない、ということであり、もう少し踏み込めば二物衝撃が一度も行なわれていないということであり、よりはっきりと言えば、彼は描写の作家なのである。

そこには極端なイメージの飛躍はない。ある物事の周りを丁寧に丁寧になぞり、描写してゆくことで、一句の世界をなそうとする。それは、他の言い方で言えば暴力的に縮められたりびろびろに延ばされたりする時間性を伴わない、ということでもある。彼の句の中に流れる時間は、彼の句が実際に読まれる数秒から十数秒の時間とともに展開される。

なまはげの指の結婚指輪かな
夜桜を見回りの灯のよぎりけり
受験子のペン先宙に何か書く

なまはげの指に指輪がはまっていること、桜をよぎる懐中電灯か何かの光、受験子がくるっと一回りペンをまわす場面。どれも、一瞬で起こることというよりは、数秒から十数秒の時間の間に知覚される出来事だ。それを無理なく同等の時間性の中にある五七五という型の中に流し込むから、彼の句にはゆったりとした余裕のようなものがうかがえる。何かが凝縮したような緊張感や、物事を大きなスケールでとらえる視点とは、基本的に無関係なのだ。

それは、彼の句の美質であると同時に食い足りない部分とも見られよう。一瞬の永遠性や、広大な時空、すなわちそれらは自然と言い換えてもいいかもしれないが、そういうものと彼の句がクロスすることはあまりない。勢い、人事を詠んだ句が多くなる。いろいろな例外があるものの、彼の句を基本的に支えているものは、句に書かれた状況にそれとなく漂わせられているユーモアの感覚であろう。

払ひたる手の甲に蠅当りけり
毒茸怒鳴られながら捨てにゆく

込み上げて来たるくさめに顔ゆがむ
熱燗の冷める間もなく空きにけり

どれも、措辞を工夫することで得られたのではない、状況に最初からあったおかしみが感じられる。人間がスマートに物事をこなそうとしても、なかなかそううまくはいかない、という辺りを描写するのが彼の得意とするところなのだ。それは大笑いしたりぷっと吹き出したりするようなおかしみではなく、人間の野暮ったさに対する憐れみを伴った苦笑、なのだ。

そして、見事なまでに句中の切れがない。流れが分断されることがないため、句の情景が読む者の頭の中にあまりにもすっと入り込んでくるのだ。そういった人事句は、すなわち、句を読む数秒から数十秒の間に実際我々が認識できるような人間性を映し出していると言える。つまり、それぞれの句に登場する人物は、近代的自我を背負ったややこしい人物としては登場せず、まるで落語に登場する人物のように典型的に愛すべき人として見えてくる。あるいは、数秒眺めたけれど特に印象に残らない人物として読者の前を通り過ぎてゆくことも、多い。

また、彼の句はユーモア一辺倒でまとめられるわけではない。

抑へたる目に涙なし菊人形

のようにユーモア感覚がむしろ批評的な視座を獲得しているものや、

礎に一歩をかけて墓洗ふ
流灯を置くてのひらの影浮ぶ


のようにユーモアと言うよりも抒情的な側面を持つ句などもある。

さらに、上に挙げたような人事句以外にも

かかるともなき夕霧のかかりけり
枯れてゐる滝壷に雪積りけり


のような自然詠ももちろん存在している。

これを踏まえて、彼の特質をユーモアという言葉以外のものでもう一度定義しなおし、きちんと目をこらすならば、ユーモアとは正反対に、あくまでも真面目で堅物な姿が見えてくる。目の前にある情景をあくまで客観的に真面目に描写すること。それは批評や抒情に結びつくこともあるが、多くはほのかな笑いを運んでくる。真面目にやったその結果として、ユーモアというものが生れるのだと、彼は知っている。冗談を言う本人はあくまで真面目な顔なのだ。みんなが笑っているけれども、自分だけは何が面白いのか分からないという顔を崩さない。もちろん、全て確信犯なのだけれど。

だから、冒頭に掲出した落第の句でも、彼は落第した子に対して同情を抱いていたり、逆に馬鹿にしていたりするような風情はない。本当に彼は落第するべくして落第したし、一人の異議もないということに彼自身頷いているのだ。そして、それをそのまま当たり前のことのように俳句にした。その真面目な顔で突き放すということこそ、彼を取り巻く世界を読者に対してユーモラスに手渡すことのできる最良の手段なのだと彼は心得ているかのようだ。

作者は中本真人(1981-)



マンモスの牙洗ひ出す出水かな

彼の句は、とても静かだ。けれんが全く見られないので、騒がしさがないのだ。

暁に染まりてよりの寒の水
みづうみの月に色なき風寄する

石室に春月の射し入りにけり

言葉の音量を絞ったために、ものの背後に匂いだすかすかな気配を一句の中に呼び込むことに成功している。夜と朝の境界線上で、黒々とした水をほのかに浮かび上がらせる光や、湖に映った月をかすかにゆがませる風の気配、春の柔らかな月の光が射し入ることでわずかに匂いの変わった石室。彼が見ているのは、決してとどまることなく少しずつ少しずつ移り変わってゆく世界の姿。それらの変化に耳を澄ませるため、彼は自分の姿をなるべく五七五の中から消しておく。それこそが、彼の句のしずけさの正体と言えるだろう。

時の流れは押しとどめがたい。

つぎつぎと初東雲の水車
打水の水とどまりて流れけり


つぎつぎと押し寄せてくる明け方の雲のように、あるいは、いったんとどまったと見えた路上の水がまたつつつと流れ出すように、時はとどまることを知らない。移り行く世界の儚さよ。

それが敏感に意識されるからか、彼の句には川をはじめとする水の流れを捉えた句が多く見られる。それは、水車しかり、打水しかり、である。

そして、どうしようもなく移ろってゆく世界の中で、そのうつろいに取り残された者に対する目線が感じられる。

門柱の残りし更地花木槿
秋うらら魚網束ねるあをき紐

木の実落ち採光窓にとどまれり
かたつむり殻に光の残りけり


門柱も、魚網も、木の実も、かたつむりの殻の光も、時の移ろいから何かの拍子で振り落とされてしまったものとして描かれているようだ。それらはあくまで固有の温度と光を身にまとったままこの世界の片隅に取り残され、どんな言葉を発することもなくものしずかに朽ちるのを待っているかのようだ。

生きているということはとめどなく流れてゆくということだ。しかし、より長い時間スケールの流れに身を任せている彼の視界ではっきりと捉えられる物体は、生きているものそのものではなく、それが残していった気配か、そうでなければ時の流れから振り落とされ、もう世界における役割を全うしたもの、であることが多い。

だからこそ、彼の句に登場する人間は、みな、実体ではなく気配として登場する。それを端的に示すのは、次の一句。

車座の気配のこりし囲炉裏かな

彼が描くのは、囲炉裏の周りに車座に集う人々ではなく、囲炉裏の周りに車座に集っていた人々の気配なのである。なぜ人々そのものを描かないのか。言うまでもない。人々は、彼によって描写されるにはあまりに移ろいすぎるのだ。言いかえれば、人間とは実体としてとらえられるには儚すぎる存在なのだ。

足跡の中にも蝌蚪の泳ぎゐる
人影をあきらかにして冬の月

映りゐる影の暗さや水の秋
冬ざれの沖につらなるあかりかな

足跡、人影、影、あかり。人間そのものが登場して何らかの行為を行なうということが(皆無ではないにしても)彼の百句においては極端に少ないという印象を受ける。そして不定形に流れ流れてゆく水のほとりか、はっきりとものの見えない薄闇の中に彼らの気配は刻印される。彼は遺跡をたどる考古学者のように、それらの気配をたどる。

彼の句の中では、人間はコミュニケーションを取ることのできる相手としては全く想定されていないことが分かる。人間は、人間以外の存在と同様に、儚く過ぎ去る者として描かれている。

しかし、どうして世界中のあらゆるものが彼の前を通り過ぎて行ってしまうのだろう。人間までもが、簡単に彼の脇をすりぬけてゆく。

それはおそらく、彼自身が取り残されている者、だからではないか。現実問題として取り残されているかどうかではなく、時の流れの中に錨をおろし、そこにとどまることで世界中の儚さを彼自身が見ているのではないか。

まるで出水によって洗い出されたマンモスの牙のように。

作者は五十嵐義知(1975-)

3

今回取り上げた二人は、どちらも俳句の伝統を背負っているというイメージが強い。21人の中でも一二を争う右寄りの二人であるが、しかし、その志向するところは全く正反対であることが見て取れる。

それは、時間スケールの取り方の相違とも言えるし、他者をどう描くかということの相違とも言える。中本の句がある一場面における人間のおかしみのようなものを捉えようとしているのに対し、五十嵐の句は何もかもを流し去ろうとする時の流れの中における人間の儚さを映しだそうとする。

人間に寄り添う季語か、自然に寄り添う季語か。二人の季語の扱い方も相違があるように感じた。




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