【俳句総合誌を読む】
もうひとつの(というかまったく別の)鶏頭論争
『俳句』2010年5月号を読む
さいばら天気
●特集 吟行は、いのちをとらえて即座に読む p69-
9氏の論考(見開き分量)とアンケート(私のとっておき吟行地)で構成された特集ですが、吟行でたいせつなことは、
1 他の人たちの邪魔にならない(俳人じゃない人も散歩・行楽してます)
2 ゴミはきちんと始末する
くらいではないでしょうか。
●高柳克弘・現代俳句の挑戦17 川崎展宏のイノセンス p158-
川崎展宏の句に見られる比喩表現を取り上げ、「比喩の名手」と評価した上で、「比喩の危うさ」を指摘。
私たちの発想の陳腐と常套を、露呈させてしまうのが、比喩表現なのだ。/「燃えるような夕焼け」「薔薇のように美しい人」などのように、比喩は日常言語で広く使われている分(日常で言うか? こんなこと:引用者)、詩語としての新鮮さを失っている。(…)比喩が現在の俳壇で避けられているということは、逆説的に、それだけ陳腐な発想や表現が横行している、という状況を物語っている。さらにそこからいわゆる「子ども俳句」の陳腐で常套的な比喩表現へと話が及ぶ。
(このあたりの高柳氏のお考えは、小誌『週刊俳句』掲載の「比喩をめぐって」(高柳克弘×さいばら天気)に詳しいので、そちらをお読みください)
で、そこから「イノセンス」を鍵語に、川崎展宏への話が戻っていくという構成。
川崎氏の俳句には、子供がけっして持ち得ないイノセンスがある。いや、イノセンスとは、本来的に子供のものではない、というべきか。(…)イノセンスとは、感性の問題ではない。それは、詩人としての、姿勢の問題なのだ。イノセンスとは、むしろオトナの側に存する価値、課題とする点は首肯。しかしながら、全体に、なんだか靄がかかったような曖昧さの残る論考です。
まず記事冒頭で「鶏頭に鶏頭ごつと触れゐたる」(川崎展宏:以下同)という、比喩の例句としては微妙な句を挙げられているところから、読者(私)のもやもやが始まる。「ごつ」というオノマトペで「硬いもの」に譬えたと言えなくもないが、後にある「鶏頭を毛ものの如く引きずり来」のほうがよほど典型例。
その句と対照させ、「鶏頭の下鶏頭を抜きし穴」「掃き清められし砂より鶏頭花」の2句は、「比喩というよりも描写の力によって、リアリティに迫っている」と高柳氏は書くが、この2句は比喩ではないのだから、比喩を論じる上であまり助けにはならない。
つまりは、陳腐で常套的な比喩(凡百の俳人や子ども)と陳腐・常套を免れた比喩(川崎展宏)の2つがあるという以外に、なにか論点があるのでしょうか。そこがよくわかりません。
イノセンスという鍵語は、この論考で、子ども俳句から導き出されると思しいのですが、だからといって、川崎展宏とイノセンスをつなぐ論拠は判然としません。つまり、比喩の陳腐:非陳腐→子ども:川崎展宏、この2項をつなぐ媒介のように「イノセンス」が、いわゆる「むりくり」掲出されたようにさえ感じます。
ま、私の読解力不足でしょうが、例えば一点、「イノセンスとは、純粋で単一な世界観を示す標語と思われがちだ。だが、イノセンスが、子供の感性の形容として使われるならば、世界が理知的に体系づけられる前の、混沌を指す言葉であるべきだろう」との部分は、あきらかにどこかおかしい。「純粋で単一な世界観」がまず意味不明だし、イノセンスと混沌を結びつけるのは、連想ゲームに過ぎ、理知や体系化を言うなら、それ以前の混沌を言うなら、イノセンスよりむしろ幼児性(infantility)の話だと思うのですが、どうなのでしょう。ただ、そうだとしても、比喩とどう結びつくのかは難しい。
この「川崎展宏のイノセンス」でちょっと触れられている「象徴」の件から広がる話題もありそうですが、次の機会にしようと思います。ひとつだけ言えば、「象徴」という語を日常的に使う場合、意味がエラく拡大してしまっていることは押さえておくべきかもしれません(ほのめかし・コノテーション=潜在的意味と重複はするが、イコールではない)。
なんだか、しちめんどくさいことを言ってしまいましたが、いつもは、興味深いテーマ設定と有益な展開のある「現代俳句の挑戦」なのに、今回は、ちょっと「もやもや」してしまったという話です。
比喩という問題は、手強いですね。
●合評鼎談:今瀬剛一、岸本尚毅、山西雅子 p167-
平和です。昨年度が懐かしいです。
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