2010-05-09

『新撰21』、四ヶ月後の気分(前) 小池康生

〔新撰21を読む〕
『新撰21』、四ヶ月後の気分(前)

小池康生


『新撰21』が出版されて四ヶ月以上が経ち、ある種の熱狂が沈静した。

俳句甲子園を中心として、結社に所属しない若き作家たちの台頭という潮流があり、それを一冊の本でとらまえ広く知らしめることはちょっとした事件だった。

若き作家を知るだけではなく、俳句との新しい接し方に刺激されるのだ。

結社での学び方の有効性はどこにあり、結社に何が足りなのか、いや結社に所属した人間は結社に入ることで逆に何かが停滞してしまってはいまいか、どこか怠慢になってはいまいか、そんなうすうす気づいていた自分の現在を、若き作家たちを見るにつけ、いやがうえにも考えさせられ、自分の創作活動や勉強方法を洗い直すことになり、若き作家の登場に拍手するだけでなく、いつの間にやら自分に厳しいダメだしを迫られているのだ。

たった4年や5年でなぜ彼らはここまでの俳句が作れるのか。作家性を語られるまでの存在になるのだ。中高年は、俳句の学習項目「説明をするな」を身につけるだけでも3年や4年はすぐに過ぎてしまうのに・・・。

ここに登場する作家たちの存在は刺激的であるし、『新撰21』という本は評判に評判を生み、大きなうねりを作り上げている。まだまだ潮流は広がることだろう。本が売れない時代に、俳句関連の本が売れ、話題になるのは素晴らしことだが残念なところもあって、未知の作家と出会うとき、「もっとなにも知らずに読みたかった」というのが正直な気分であった。

本に限らず映画や音楽でもそれは避けられぬことで、白紙で出会いたいなら、こちらが情報に最も速い人間になるしかないのだが、『新撰21』という本のなかで、新撰21の作家がここまで語られていることを残念に思ったのはわたしだけだろうか。

巻末に<合評座談会>があり、メンバーの豪華さに引きずられ、俳句を読み終わらない内から座談の頁を覗き、いまここを読んではイケナイなぁと思いながらも、最後まで読んでしまい、そのイケナイ理由は、これを読むと若き作家たちに対して先入観が生まれるわけで、まるでコンクールの選のような座談を読んで、世にでたばかりの彼らが早速に序列をつけられているような違和感を覚え、読者である自分もしばらくこの先入観から逃れられないだろうと残念に感じ、『できればこの座談は、別のところで読みたかった』と痛切に思ったものだ。

この本でまず彼らの俳句と出会う。それで十分ではないだろうか。

それがどれだけ素晴らしいことか。

しかし、俳句だけを読むのは一般読者には辛い作業だから、散文や語りの頁が一冊の本を接しやすいものにする効果はよく分かるのだが・・・。

四ヶ月が経ち、一度インプットされた多くの事は忘れた。

これからわたしは、新撰21の作家たちと出会うのである。

さて、ここからは特別になにも書くことはないのだ。

後れ馳せながら若き作家に送る礼状のようなものだ。

誰かが既に書いているかもしれない。きっと書くべきことは残っていないのだと思うが。


今日は晴れトマトおいしいとか言って  越智友亮

おいしそうなトマトがなっている場所でこの句を口ずさみたい。俳句の感想や評論めいたことを書くとき、だれもが褒められる作品は避け、自分しか読みとれない作品を求めるところが人間にはあり、いや、わたしにはあり、それはとてもいやらしく、人間らしく、お下品だけれども自分を育てる行為でもあったりする。しかし、最近はいいものをピックアップし、「いい」とだけいいたい気分なのである。・・・これはいい。

ひょっとして、この句も次の句も新撰21という場を得て、より耀き、この軽みが受け入れられやすくなっているのかもしれない。

鳥雲にティッシュ箱からティッシュ湧く  越智友亮

ティッシュがいい。ティッシュは清潔だけれど、鼻をかんだり性器を拭いたり、生臭いところもある。<鳥雲に>には、ティッシュに響きあうものがある。<ティッシュ湧く>はちょっとCMのようだけれど、現代人の共感を呼ぶ。

大釜に飯の起伏や鳥曇  藤田哲史

<大釜に飯の起伏や>、この質感、存在感。ここに<鳥曇>を持ってくる。

こちらの気持ちにも起伏が生まれる。釜の蓋をあけたときの蒸気や匂いまで が迫り、一旦リアルに再生された大釜と飯の起伏が、<鳥曇>に働きかけ、次々にイメージを生み出して行く。

きつつきや缶のかたちのコンビーフ   藤田哲史

缶を外しても缶の形をクリアに見せるコンビーフ。そこへ、きつつき。斬新。痛快。この本で衝撃を受けた一句。コンビーフというモノは、この作家の世代にとってどういうものなのだろう。

龍の玉小説よりも書簡よし   藤田哲史

この句もわたしの中の大丸。龍の玉は美しく、独特の高貴さがあるが、それに見合う句にお目にかかったことがない。この句に龍の玉の一つの成功例を見た。書簡を読める作家は、全集を出すほどの偉大な小説家。その作家の小説よりも書簡がいいというのだ。小説を見下げているわけでなく、尊敬する作家の書簡がいかに素晴らしいか、その敬愛の念が龍の玉に託されている。

何年か前、知りあいの若きお坊さんに、「龍の玉で面白い俳句ありませんか?」と訊かれたことがあり、とても困ったのだが、これからは掲句を紹介できる。

ぶらんこをくしやくしやにして遊びをり   山口優夢

<くしやくしや>が、遊び心や遊びそのものをよく現わしている。

しかも、ぶらんこの材質と<くしやくしや>の取り合わせが意外。

ぶらんこの句に、<くしやくしや>を盛り込もうとした時、もう句は成功しているのだ。

夜着いて朝発つ宿の金魚かな    山口優夢

つまり、宿のことはなにひとつ知ることなく、ただ眠るだけに泊まった所。

そこの金魚が印象的だというのだ。玄関先だけを見せ、そこにいる作者や宿までをも想像させる。・・・いい。

マフラーの中の眠りと目覚めかな   山口優夢

マフラーの中で眠りマフラーの中で目覚めたと読んだ。それでいいのだろうか。わたしにはそれが面白い。勉学にいそしみそうなったのか、旅の途上なのか、なにか特別な時間が切り取られているような。風邪をひきそうな眠りなのに、幸せ感がある。

少女みな紺の水着を絞りけり   佐藤文香

つくづくいい。なにも特別な材料はないのに、少女という人間がいて、空気感があり、プールとは書いていないがプールがあり、部屋の外には夏の光りがあり、詩心がある。絞られた水着から垂れる水滴という決してうつくしいとはいえないモノが隠し味になっているのかもしれない。

寝た順に起きてくるなり猫柳   谷雄介

俳句を読むのに、俳句以外の一切の情報はない方がいいのだけれど、わたしは、谷雄介と何度か句会を共にし、彼の発言の巧みさを知っている。句を褒める時の面白さよりも、句を否定する時に並々ならぬ力量や個性を感じた。

なんの感情もださず、その句がいかにダメかを指摘し、論議の角度を生み出す。彼は、生み出す男なのだ。句会や論議の次の展開を考えて発言する才能がある。なかなかできることでない。

しかし、評の巧みさほど、作句の上では、まだ才能を発揮していないかもしれない。彼の作品に対しては好意的な論評が多く、相当に期待されているのだろうが、いまのところ俳句作品よりも谷雄介という人物の方が魅力的である。誌上を借りての蛇足だが、句会で認めてもいない作品を「作者が知りたいから採りました」というのはやめてもらいたい。

七夕や遠くに次の駅が見え   谷雄介

作者名を知らずに読むと適度に気持ちよく、なにも言うことはない。

しかし、多彩な試みをする谷雄介は、この程度の面白さで他人を喜ばせられないという宿命をすでに持っている。

起立礼着席青葉風過ぎた    神野紗希

この句が、新撰21の源流に耀く一句かもしれない。

一体、新撰21にいる作家たちはどのように育ってきたのだろうか。

だれか、俳句甲子園を中心とした若き作家たちの成長の軌跡をノンフィクションとして書いてくれないか。実はわたしは、俳句甲子園に暗く、イベント自体にはあまり興味がなく、同じ結社の仲間たちが大挙して愛媛に行く気持ちが分からずにいる。しかし、俳句甲子園なのか、愛媛の土壌なのか、俳句甲子園と時を同じくして若い俳句作家たちの表現活動に、どこか共通したバイブレーションを感じ、その由って来たる“場所”を知りたいのだ。

新撰21の若き作家群像、そのなかでも神野紗希という作家は象徴的な存在なのだろう。健全な耀き、それは現代において不良の存在感よりも稀有である。

大人たちをこちらに向かせ、青年たちをも集合させる一句だったのではないだろうか。

                  (一旦休憩。来週に続く)




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