2010-05-23

『新撰21』、四ヶ月後の気分(後) 小池康生

〔新撰21を読む〕
『新撰21』、四ヶ月後の気分(後)

小池康生


『まんが王国の興亡 ~なぜ大手まんが誌は休刊し続けるのか~』中野晴行著(ebook Japan 525円)が面白い。電子出版、PCで読む本なのだが、まんが評論ではなく、まんがを<産業>としてとらえ、週刊の少年まんが誌として発展を遂げた業界の疲弊を分析し、まんが産業の未来を考える本である。

わたしなりにこの本の中身を集約すれば―――
日本のまんがは週刊誌という独特の形態で、毎週たくさんのバラエティに富んだ作品を提供し、週刊誌自体は赤字なのだが、連載まんがは三カ月で一冊の単行本として発売され、そこからヒット作が生まれ、長編シリーズの単行本は、出版社の屋台骨を支えるほどのビジネスとなる。

さらに―――、
ヒットしたまんがは、テレビ化、映画化、DVD販売、主題歌のCD化、海外での出版、ゲーム化、関連キャラクター商品の発売、パチンコ、パチスロの版権など、作品の周辺に一大産業を生みだす。

ヒット作は、産業を生み出すというのに、本体のまんがは週刊誌も単行本も売れなくなっている。本体が大変な事態に陥っているのだ。しかし、本体のまんががパワーを失えば、周辺のビジネスもぽしゃる。
そこで、週刊誌の新しいあり方を提言しているのだ。

そのことを俳句の世界にあてはめようというのではないが、俳句を週刊で届ける「週刊俳句」は画期的であったし、俳句雑誌も俳句の単行本も手を変え品変え試みを繰り返す必要がある。

器が違えば、そこに載せる作品に刺激を与えられるかもしれないのだ。
そういう意味でも『新撰21』という本は意味があったのだ。


水に浮く一円玉やさくら咲く   神野紗希

一円玉は愛おしい。お金のなかでも最も俗から離れている。わりかし花筏に近い存在かもしれない。<水に浮く一円玉><さくら咲く>、遠くて近いものが、響き合う。

弥陀の手のたやすく外れ煤払   中本真人

弥陀という存在の重み、その手のたやすく外れる<がっかり感>と<親しみ>。煤払いという仕事で、見上げていたものが人間の目の高さに感じられる。煤払いも、ベクトルとして上から下へ。そんなところが同調し、煤払いの日、一瞬、弥陀が近しい。そして、掃除が終わればまた貴い位置に戻る。

桜貝たくさん落ちてゐて要らず   高柳克弘

俳壇事情に昏いわたしでも、この作家が、俳壇の貴公子として特別扱いされてきたことを知っている。最近は、少しばかり批判的な見方もされているようだが、湘子存命の頃からそういう意見がでていればもっと健康的だと思うのだが・・・。
わたしは、この人が伝統的な調べを自分の細胞のように使いこなすことが不思議だし、魅力的だ。掲句はそういう句かというと必ずしもそうではないが、変奏として面白い。俳句とは、<調べ>を手にした人たちの活躍の場所だ。

風細く吹きゐる蛇の卵かな   高柳克弘

説明がいらない。完成した句はなにも言う必要がない。だからこの人の句は書くべきことがないのだろうと思う。「いいなぁ」で終わり、それで終わるのは批判でもなんでもない。若くして完成した人に、それでも足りない何かを探し発言することは表現に関わる世界の常だ。

<新撰21>という物語を考えると、結社に所属しない若者たちの台頭の一方で俳壇の重鎮の元で育った人間がいることが面白い。
これから新撰21というストーリーに、新しい登場人物が加わり、消えていく人物もいるだろうが、この作家が第一章の重要人物であることは間違いがない。新しい調べを模索する人がいる一方で、伝統的な滋養で育つ作家がいることが物語に芯を与える。

振り消してマッチの匂ふ秋の雨   村上鞆彦

マッチの燐の匂いがするのは当然だが、秋雨の匂いまで加わるところが魅力的。こちらの鼻腔の質感まで感じさせる。この人の名前を昔から知っている気がするのは何故だろう。

うららかや青海原といふけもの  冨田拓也

青海原を、けものと捉える。それが嵐の日ではなく、<うららか>を斡旋する日にそう思うことが魅力的だ。

日の銅(あかがね)月の鋼(はがね)と雁渡る  冨田拓也

一方に高柳克弘がいて、別のところに新しい文体を生む作家がいる。
この人の語彙は漢方薬局の壁一面の抽斗のように多彩だ。

虫の夜や絵巻の中は一面火   冨田拓也 

<虫の夜>という平凡な美しさから打ちだし、絵巻の中と展開し、<一面火>という大きく意外な展開、心地よく、かつねっとりと本質に迫る文体は飽きない。

八月の水平線をかき鳴らす   豊里友行

三線の弦、水平線、沖縄の歴史。昭和20年から現代までかき鳴らされる音だ。

ゴールポスト遠く向きあふ桜かな  相子智恵

<ゴールポスト遠く向き合ふ>、こんなところに詩が落ちていたかと驚かされる。誰もいなければ、ただの大きな容れ物で、選手を配置すれば奇跡の確立ほどボールの入らないゴール。それが向き合う満開の季節。

天袋から籠枕投げ寄こす   相子智恵 

懐かしい景だが、現代でも帰省の景としてありうるだろう。
押し入れにしがみつき、天袋から枕を投げる人の表情も、それを下で受け取る人間の表情が生き生きと想像できる。わたしには自分の従兄の姿が見えた。

殺さないでください夜どおし桜ちる   中村安伸

桜と死は近いが、殺さないでくださいとの懇願を描くことは、とても意外性があり面白い。

地下道を蒲団引きずる男かな   関悦史

強烈だ。誰もが知っている景だが、まだ描かれていなかった世界。描くことでさらに何かが生まれる。

虚子の忌の喋る稲畑汀子かな   関悦史

虚子は歴史的人物、その係累でこの世に生きて喋る人がいる不思議。
この五七五がその不思議さを増大する。

監視カメラにみられていつぽんしめぢ伸ぶ   関悦史

近頃、監視カメラの句を幾つか読んだが、この句が先行句だろうか。
犯罪の匂いのする場所で監視カメラを描くのは平凡。菌を捉える監視カメラはずいぶんと面白い。

まだ夢を見てゐる牡蠣を食ひにけり   関悦史 

赤尾兜子の<牡蠣くうやその夜うすうすと人逝けり>や<ゆめ二つ全く違ふ蕗のたう>に魅力を感じるわたしには、この句も自然に面白い。

念のため言及すれば、それは決して兜子に似ているなんてことを言っているのではない。   

人類に空爆のある雑煮かな   関悦史

「週刊俳句」は、正月に掲句を得たのだ。『新撰21』でわたしは、この作家と出会った。この本は、これからどれだけ手を変え品を変え、俳句の世界を揺さぶってくれるのだろうか。

このあと、鴇田智哉の句を書こうと10句以上に記しをつけていたのだが、原稿を書く日に読みかえすと、響いてこない。鴇田智哉という作家は、わたしの体調や気分によって極端に必要だったり、不必要だったりするようだ。

いまさらながらに、この一冊は、文体と調べの重要さを感じさせ、作家性とはそこに尽きると認識させる。必要不必要が際立つのは、作家性ゆえだ。

                            (以上)




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