成分表36 分かる
上田信治
「里」2010年4月号より転載
プロ野球が始まった。
テレビの野球は、まず、ピッチャーの指先の感触を感じよう、というつもりで見る。指がボールにかかったか、抜けたか。身体から腕、腕から指先へと移動する力が、前方へのモメントや回転として、ボールによく伝わっているか。そんなことが、テレビ画面をいっしょうけんめい見ていれば分かるのだ。どこまでが観察で、どこからが想像か分からないのだが、ボールと肉体の接触の「感じ」つまり運動が生む内的感覚を、観客は、自分側に呼び起こすことができる。
そういえば、デズモンド・モリスが『マンウォッチング』という本で、ベンチで隣同士に座る人達が、意識せず同じ形に脚を組んでしまうような、動作のシンクロ現象を、写真をまじえて報告していた。
人は、人から多くの「情報的なもの」を受けとっている。それは、人の共感する能力からくるもので、きっと、なにか内的な「感じ」のようなものが、ぱっと見の姿や、それこそ隣に座っている気配のような物を通して、人から人へ伝わっているのだろう。
田打鍬一人洗ふや一人待ち 髙野素十
摘草の人また立ちて歩きけり 〃
太藺田の方へ曲つて行く男 〃
素十のスケッチするのは、いつもすこし離れたところにいる人の、用事の途中の動作だ。今この人たちの意識には「用」があるだけで、気持ちのようなものは、あまりない(だれが「踊子」にささやいた男の心理を忖度するだろう)。
また、作者がここで、季題を価値として表現することにほとんど関心がないのは、いずれの題材にも一本調子の書きぶりから、明らかだ。
自分には分かる。
素十には、この遠景を行ったり来たりしている人たちの、内的な「感じ」が手に取るように分かるのだ。それは、健康と言ったら褒めすぎであるような、空白に近い人間の状態である。
素十はそれを、有情の天地の一部として、また特異点として見ている。
その無関心の一点を描くことで、空気穴が開いたかのように、季題の空間が息づくのだが、作者の関心は、むしろ、そこに開いた「穴」に集中している。
それは、読者として、書かれた言葉をいっしょうけんめい見ていれば分かることで、俳句は、人が人の脚の組み方をまねてしまうような、無意識の共感能力を、思い切りあてにして書かれている。
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