成分表37 気づき
上田信治
「里」 2008年11月号より転載
大学でマンガを教えている友人と話したこと。
「ストーリーの定式としてよく言う『起承転結』は、実地に教えていると、どうもうまく使えなくて、自分は、とりあえずストーリーの基本は『問題>>ハードル>>解決』というふうに教えている」
「おもしろいのは、ときどき『他力本願』な要素を呼び込む必要が出てくることで、理屈ではなく、急に雨が降ってきたり、火事で焼け出されたり、現実のニュースを取り入れたりといった、そういうことで、ぱっと話が展開することがある」
「それは、どうやら『気づき』と関係があるらしい。外からの要素によって、登場人物が、ちょっとしたことに気づくんだ」
「そういうものが、『起承転結』でいう『転』なんじゃないかと、最近は思っている」
なるほどね。でも「問題>>ハードル>>気づき>>解決」という図式は、ちょっと図式的すぎで、出来の悪い「中学生日記」みたいな話ばっかりになっちゃわないだろうか?
そう言ったら彼は「まあ、でも、教えるべきは、ちゃんと『中学生日記』を書けるようになる、ってことなんだよ」と言って、笑った。
しかし、言われてみれば、「他力本願」なエピソードは、図式から引き出せるものではなく、作者本人にとっても、それは外からやってくるもので、そういうものがあれば、出来の悪い『中学生日記』(に含むところはないが)にならずにすむということなのだろう。
作者が作る箱庭のような「世界」が、「偶然」によって、なまなまとした相貌を得ることがある。
そういえば、チェーホフの短編で、ある俗物の男が、夜、霊園で女を待ちながら、月が石を照らすのを見ていて、何か深く大きなことに気づいてしまう、というものがあった。
男はくたびれて立っていられなくなり、馬車にもどり「太りすぎはよくないな」と思う。そして、生涯で(おそらく)ただ一度、安らかで静かなもの、あるいは無、あるいは哀愁について思いをめぐらせことは、彼の人生になんの影響も与えない。
石を見て、主人公にそういうことを思わせた、作者の意図が「偶然」である。どうしてそんなものを書こうと思ったのか。とつぜんの宗教的回心は、この作者が繰り返すモチーフではあるのだが、それにしても。
そのとき男の心は、箱庭に配された機構であることを越えて、あなたや私の心と、同じ資格で「この」世界に属しているように思える。
というか、それは「あなたの心」である。
しぐるゝや駅に西口東口 安住敦
作者の心は、駅に西口と東口のあるこの丸ごとの世界を、あらためて本人として体験している。こんなことを書いてどうしようと思ったか。その心が「偶然」である。
急な雨に降られて、何かに気づいている。それは「私の心」でもある。
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