2010-05-16

真説温泉あんま芸者 第3回 失われ続ける風景・その1 さいばら天気

真説温泉あんま芸者
第3回 
失われ続ける風景・その1
田園シンフォニー


さいばら天気



『ソイレント・グリーン』(1973年)というアメリカ映画があります。舞台は2022年の地球。そこでは人口爆発による食糧難で、野菜も肉もホンモノを食べられるのはお金持ちだけ。一般人はプランクトンから合成した「ソイレント・グリーン」と呼ばれる食物を配給されて暮らしています。

じつはそのソイレント・グリーンの原料は(ネタバレですが、古い映画だし、許してもらいましょう)、プランクトンではなく、人間だったという、この映画、観たのはずいぶんと前ですが、忘れられないシーンがあります。老人が安楽死施設で死んでいく場面です。

その死体がソイレント・グリーンへと加工されるわけですが、安楽死に際して、施設のサービスというのでしょうか、最後のご褒美というのでしょうか、椅子に坐った老人の目の前の大画面で、のどかな田園風景が、ベートーヴェン交響曲第6番(文字どおり『田園』)に載せて繰り広げられます。

幸いなことにYouTubeに、そのシーンがありました。
http://www.youtube.com/watch?v=WbJTBBoDFH0
(4:00あたりからです)

山を鹿が駆け、空を鳥が飛ぶ。それは2022年時点では、すでに失われてしまった風景です。老人はそれを眺め、涙します。「ああ、なんと美しい!」「長らく見ることの叶わなかった自然の風景!」というわけでしょう。

私がこの場面を40年近くも忘れられないでいる理由は、死んでいく老人への最後の贈り物が、貴重となったホンモノの食べ物でもなければ、書物(ことば)でもなく、「風景」であったことです。

風景がなければ生きていけないわけでもないのに、人は、風景をかけがえのないものとする。かけがえがないのに失ってしまった風景を最後に眺め(人工の画像ではありますが)、心やすらかに死んでいく。

このとき、「失われた」という点が、映画プロット上も、私の関心上も重要です。というのは、老人の涙は、美しさへの感動の涙というよりむしろ、喪失への慨嘆と想像できるからです。外に出ればお目にかかれる風景ではない。飛行機を使えば見物できる秘境の風景でもないわけです。

老人が大画面で観る風景は、「いかにも田園」な風景です。それこそテレビ番組「野生の王国」、今なら「ナショナル・ジオグラフィック・チャンネル」でしか観られないような、「いかにも」な風景です。

地平線に大きな太陽が沈んでいくような「大自然」な場所に暮らしている人は、全地球的な食糧難にまだ見舞われていない2010年時点できわめて少ない。この老人が若い頃、こんな風景のなかで寝起きしてしていたのでしょうか。そうとは思えません。この老人が最期に観て涙する風景は、彼にとって親しく懐かしくかけがえのない風景というわけではないのです。

この「いかにも」な風景は、集合的(collective)に懐かしい風景です。そのことは、当時、日本人の私が観ていても「懐かしさ」のようなもので胸がいっぱいになったことからも言えると思います。

手つかずの、無加工の、「純粋」な自然という風景は、「風景」と名づけたとたんに、それは自然ではなく「文化」であるといった、少々ややこしい議論はさておいて、自然であれ、文化的「自然」であれ、風景が私たちに「共有」され、それが失われることを、みんなして悲しむ。このことは、当たり前といえば当たり前ですが、ちょっとおもしろいことのように思います。

個人それぞれには、喪失というものがあります。それはもういろいろな種類の。でも、みんなしての喪失感というのは、風景のほかに、それほど多くは思い当たりません。



去る4月9日、作家の井上ひさしさんが亡くなりました。井上ひさしで、ひとつ、よく憶えていることがあります。

コメが不作で、タイ米を輸入するか、コメの輸入を自由化するか、そんなことが議論されていた頃ですから、1993年秋のことです。テレビ報道で、井上ひさしさんが輸入自由化反対のコメントしているのが映し出されました。そこで彼は、輸入を自由化すれば、やがて日本から稲田の風景が失われる、といったことを言いました。

センチメンタルな意見だなと思いましたが、そのすぐ後に、「風景が失われるから反対」という論拠に、かなりの部分で同意していました。井上ひさしさんのコメントを聞いて、しばらしくして、金色に広がる稲田の風景がアタマの中に広がったからです。理屈で同意したわけではありません。私は田舎の出ですが、農家出身ではない。それでも、稲田の風景は懐かしく、大切なものという思いが、そのとき、したのです。

でも、考えてみれば、風景がいつまでも昔のまま残っていくなんてことはあり得ない。例えば、産業が変われば、風景は変わる。もっといえば、世の中は変わっていくので、風景は変わっていきます。別の言い方をすれば、風景は失われ続けるものなのです。

(だから失っていいなんて言ってませんよ)



田圃が広がるのどかな風景のまんなかで、ある日、造成工事が始まり、りっぱな公民館が建つ。のどかだった風景が台無しです。でも、建築するほうは「台無し」なんて思いません。「風景と調和するようなデザインにしました」と言いつつ、出来上がりは、目も当てられない奇異な建造物だったりもする。

風景を壊すハコモノ行政には、批判も多いことでしょう。コンビニやホームセンターも、そう。でも、田圃のまんなかに数軒新築される積水ハウス、ミサワホームのたぐいも、田園風景を台無しにする点では同じです。でも、こちらを非難するのはむずかしい。そこに住みたい人が自分のオカネで拵えたものに、「視界に邪魔だ」とは、思ってはいても、なかなか公には言えません。

風景が興趣を保ちながら長くそこに存在することを、私(たち)は切望しますが、それは、「酔狂な趣味に応えよ」ということと、それほど変わらないかもしれません。

東海道近くの海岸で、砂浜を見つけるのはむずかしいです。ないとは言いませんが、私たちが「海」と聞き、「砂浜」というときに想像するような場所は、それほど多くありません。東京から名古屋まで海岸線を歩けば、堤防や護岸の多さがわかります。

あるとき静岡の某所を散歩して、そのへんに坐っていたお爺さんに「このへんで砂浜が見られるところってありますか?」と訊いて、河口しかないことがわかりました。「どの浜も堤防になったから」とお爺さんは説明してくれましたが、それを聞いた私たちの失望とは対照的に、お爺さんは嬉しそうでした。「むかしは台風のたびに大変だった」。

コンクリートで固められた海岸も、ダムも(治水という目的を信じればの話ですが)、美しい風景と引き替えに、人命が守られているわけです。お爺さんに向かって、「人命が失われる被害より、砂浜が失われた被害のほうが大きいですよ」とは(言いたくても)言えません。

失われるのは、それは、もう、しかたのないことだ。そう思わないといけないのかもしれません。



ところで映画『ソイレント・グリーン』。老人が観た大自然パノラマに映る動物や植物、かつては生きていた動植物を、人間が食べてしまったから、あるいは別の用途で消費してしまったから、風景が失われてしまったとも言えます。人間が人間を食べているぶんには(自己完結)、自然はそのまま失われることがなかった。その意味では、あのパノラマ画面、きわめて皮肉な仕掛けに思えてきました。


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