特集・髙野素十
すーっと入る 上田信治
ブログ「胃のかたち」より転載
これは、素十の得意技かもしれない。名詞をはずして「すーっと入る」。
ひつぱれる糸まつすぐや甲虫 素十
漂へる手袋のある運河かな 〃
歩み来し人麦踏みを始めけり 〃
とんとんと歩く子鴉名はヤコブ 〃
ついて行く大きな男橇のあと 〃
上五に名詞がくれば、読者は、そこでとりあえずの具体(視覚像といってもいい)をキープして、中七へ進める。対して、素十の掲出句は、上五だけではナンダカ分からない。読者は、具体の不在によって、次の語句へと吸引され、そこに、上五中七間を渡っていくテンションが生まれる。
もう一人「すーっと入る」ことに心をくだく人、岸本尚毅。
はからずもべつたら市の夕嵐 尚毅
今年また鰆の頃の忌日かな 〃
落ちてゆく木の実の見えて海青く 〃
そのへんに鯔の来てゐる祭かな 〃
これらの句は、上五だけではナンダカ分からないのは同じだが、うしろの語句の予期のさせ方に、ゆらぎがある。
素十の「すーっと入る」上五は、活用語の連体形で終ったり副詞節だったりするので、うしろに来る語の性質は、体言、用言、と上五の段階で決定している。
尚毅の「はからずも」「今年また」という上五は、中七以下でそれをどう受けるかを、確定しない。うしろにかかっていくテンションを持ちながら、かかりかたが 不確定というたよりなさ。そのことは、読者が渡ってゆく上五中七の間の切れ目を、クレバスのように深くする。作者が、上五だけ作って、いったん家に帰って しまったんじゃないか。そう思わせるほどの、間。
素十の工夫は、一物仕立てを「黄金を打ち延べたる」ように、確固とした語句の結びつきで作る工夫。
尚毅の工夫は、言ってみれば「石鹸玉がぶるぶる伸びてゆく」ような。茫洋としていながら「形をなしてゆく」ように作る工夫と言えるか。
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