2010-05-09

奥多摩ホリデー〔前篇〕山口優夢


奥多摩ホリデー
〔前篇〕

山口優夢



0 この日はGWの旅行の計画のために池袋に集まったのだった

四月某日深夜。池袋で降りた僕はS井に電話をかけた。そこで指定された東口の喫茶店に向かう。時刻は11時過ぎ。終電まであまり時間は残されていない。この時点で、僕はもうこの日のうちに家に帰りつくことをあきらめていた。この時間からS井とS崎に会うというのに、無事終電までに帰れるわけがない。

喫茶店はあまり混んでいない。帰る人は帰るし、遊ぶ人は遊びに行く時間帯なのだ。ここにいるほとんどの人は無口で何か自分の作業に集中しているらしかった。そんな中でS井もぽつんと座っている。

S崎は、と聞くと、渋滞にはまっているらしく、まだ来ていないと言う。本来なら10時半集合だと言うのにずいぶん遅いじゃないか。でも、自分も11時過ぎに来たので何も言わずに席に着いた。まあ、いい。夜は長い。終電を考えなければ。

この日は、GWの旅行の計画のために池袋に集まったのだった。S井、S崎というのは、以前、一緒にロシアへ二泊三日で旅行した僕の高校時代の仲間(「ロシアに二泊三日で行ってきました日記」参照)。一緒に旅行に行くのはあの時以来か。あれは卒業旅行ということで国外にまで足を伸ばしたが、今ではS井は金融関係の職に就き、S崎はロースクールで多忙を極めているために、そこまでの余裕はない。それでも一泊か二泊くらい時間をとってどこか国内を旅行しようというS井の提案であった。

12時前にS崎登場。この時点ですでに僕は終電がない。

飛騨高山に行こうか、という話は以前から出ていた。3人ともまだ行ったことがない。しかし、3人の予定を擦り合わせてみると、5月4日、5日の1泊2日しか空いておらず、しかも5日の午前中には東京に戻ってこなければならないことが判明。それでは首都圏を離れることはだいぶ難しい。

南に行って箱根か伊豆あたりで1泊するか。北に行って日光あたりで1泊するか。どれもいかにも観光地、という感じがして面白くない。前回、ロシアを選んだのも、あんまり誰も行かなさそう、という観測があったからだった。せっかく行くのなら、なんでそんなところ行ったの、と呆れられるくらいのところがいい。

そこで浮上したのが、北でも南でもなく、西に行って奥多摩あたりで1泊するという案だった。実際には東京から手軽にハイキングやキャンプに行けるため、行く人は少なくはないのだが、自分たちにとっては、箱根や日光と違って、過去に行ったこともなければ将来行くとも正直思えない。となれば、今行くしかない。

僕らの旅は、そうやって誰とも言えない誰かのウケを狙っているようなところがあった。今思えば、なんてことはない、それは結局自分たちのウケを狙っていただけのことだろう。

車は近くの実家に置いてきたとS崎が言うので、奥多摩方面に行くという大雑把なことが決まった時点で旅行の話は切り上げ、酒を飲みに向かう。通りがかりのショットバーで朝までコース。足のつかないスツールに腰掛ける。

最初の一杯は、店員に薦められてショットガンカクテルを3人して頼む。テキーラとソーダ水を半分ずつショットグラスに入れたものの上にライムの切り身が置かれている、このカクテルの飲み方には作法がある。ライムは脇に置き、掌でグラスにふたをしていっせいにテーブルにグラスを叩きつけ、中の炭酸が泡立ったところをくっと一気に呷ってライムをかじるのだ。

口の中を一瞬で通り抜け、気がついたときにはその喉ごしだけになっている酒の味を思いだしつつフレッシュなライムの香りを味わうのだが、これがなかなか爽快。口の中で転がすのではなく、一気に喉の奥に失われてしまうことでその残り香を心行くまで楽しむのだ。その、失われやすいものを愛する、眩しいばかりの若さが好ましく思えたのかもしれない。

いつも通りの馬鹿話に終始して、朝方に散会。結局、この日は奥多摩に行くということしか決まらなかった。

1 あ、ゆーむさん?大変申し上げにくいのですが…

5月4日朝7時30分。

新宿駅11番線ホームに着いた僕は2人にメールを出す。新宿を出て奥多摩に直行する中央線の奥多摩ホリデーは11番線ホームから7時40分ごろ発車予定。それに乗れば9時過ぎには奥多摩駅に着く。メールには11番線の1号車付近で待つということを書き送る。

すると、3分も経たないうちにS井から着信。このとき、若干の不吉な予感を覚える。時間通りに新宿に来ているなら、すぐに会えるのだから電話をする必要はないはずだ。

「あ、ゆーむさん?大変申し上げにくいのですが…」

僕のことをさんづけしているところなど、なおのことヤバい。これはひょっとして…。

「今家におりまして…」

つまり、僕のメールで起きたとのことらしい。まったく、もう。

とりあえずS崎とは新宿でほぼ定刻通りに落ち合い、二人で南口をぶらぶらして時間をつぶす。奥多摩行きの列車に乗ったのは結局8時47分だった。

当初の予定ではそのまま奥多摩駅まで行ってしまうつもりだったが、S崎が、奥多摩駅より手前の沢井というところで酒蔵見学ができるらしいとの情報を掴んでおり、今から予約してみようということになる。今から予約できるものなのか、少なからず疑問ではあったが、それがうまいこと予約できたので、急遽沢井で降りることに決定。

元々がその場その場の雰囲気で流れる3人らしい、ゆるーい旅の始まりとなった。

2 お酒に豆腐、それに「沢井」という地名。よほど水のきれいなところと見える。

沢井の駅前にあるのは、一本の大きな木とそれを中心にした小さな広場、床がびしょびしょに濡れた公衆トイレ、ぽつんと立っている平屋の小さな郵便局、これで全てだった。あとは屋根のないホームと跨線橋を遠巻きに取り囲むように杉山の山並みがどこまでも続き、その上に抜けるような青空が広がる。

郵便局の前の坂道を下ってゆくと青梅街道に出る。街道は二車線で、歩道がない。その道を横切ってさらに坂道を下ると川に行きあたる。多摩川だ。青梅街道に沿って流れている。と言うよりも、本当は多摩川に沿って青梅街道ができたのだろうが。

GWということもあってか、多摩川沿いの緑地のようなところにお店がいくつか出店していて、小さなお祭りのように人で賑わっている。これから酒蔵を見学に行く小澤酒造のお酒や、名物らしい豆腐も売っている。お酒に豆腐、それに「沢井」という地名。よほど水のきれいなところと見える。

多摩川の両岸は鬱蒼とした青葉に囲まれており、数メートルくらいの川幅の真ん中あたりがきらきらと輝いている。川まで降りてみると、カヌーが何隻か、隊列の崩れた蟻のように対岸付近で戸惑っていた。一日体験コースとかで乗っているのだろう。河原の大きな石の陰には黒く小さな魚がすばしっこく動いていた。

3 2006年自分たちは何をしていたか思いだしてみると

午前11時。予約した時間になったので、青梅街道沿いにある小澤酒造の酒蔵へ。ここは、かの有名な清酒・澤乃井を造っているところなのだ。元禄年間の創業、300年の歴史を誇る酒造メーカー。酒蔵の中は薄暗く肌寒い。40人くらいの観光客を相手に、日本酒の作り方を丁寧に説明しつつ案内してくれる。土壁でできているから、外気はほとんど入ってこず、年間通して20度くらいに保たれているらしい。それと関係があるのかどうか、S崎がしきりに酒蔵の中は携帯の電波が通じないと嘆いていた。

酒蔵見学を終えて、近くの休憩所のようなところを見に行くと、澤乃井の利き酒をさせていた。お猪口一杯あたり200~500円、飲み終わった後のお猪口は記念に持ち帰っていいとのこと。我々は「大吟醸」、「梵」、「元禄」の3種類をセレクトして、それぞれ飲み比べた。「大吟醸」は精米する際にお米の50%を削って作ったものだが、澤乃井のオリジナルである「梵」は、なんと65%を削ったお米を使ったもの。「元禄」は、逆に、お米を10%程度しか削っておらず、まだ精米技術も今ほどは発展していなかった創業当時の元禄年間にはこういうお酒が飲まれていたのではないか、ということで作られたお酒だそうだ。他の透明な2つの酒に比べて、元禄だけは黄色がかっている。

大吟醸が最もフルーティーで甘い。梵まで行くと、逆に辛みが増す。おそらく50%から65%にけずられる過程で、甘味を担っていた部分も削られたのではないか。その分、梵には米本来の味わいが体現されているとも言える(たぶん)。元禄は、確かに大吟醸などに比べて雑味のようなものが混じっているようにも感じられるが、それが逆に独特の味わいを醸し出している。結論としては、どれもうまいのである。

争うように3杯のお猪口を飲み終わった後、調子に乗ってもう1杯ずつ利き酒をすることに。今度は「吟の舞」、「蔵守」、「梅酒ぷらり」の3種類。吟の舞は、S井いわく「大吟醸と梵を足して二で割った感じ」。「蔵守」というのは熟成酒で、見学してきた酒蔵で何年間か保存されていたもの。利き酒させてくれたのは2006年のものであった。こちらはほどよく甘味が抜けた感じ。「梅酒ぷらり」は日本酒ベースの梅酒。しっかりと梅の味のする爽やかな梅酒。気がついたときには3杯とも空になっていた。

S井もS崎も「ちょっと飲み過ぎたわー。酔っ払ってきた」と言っている。昼の12時から酔い始めるという贅沢な旅。それにしても、自分で宣言して酔っ払うというのは、なんだか危ない感じがする。かく言う僕もろくに朝飯を食べずに出てきたので、ほろ酔いなのは免れない。蔵守を飲みながら2006年自分たちは何をしていたか思いだしてみると、それぞれに感慨が深すぎて、ほんの少し場が盛り下がった。

4 タクシーは一台しかないですからねえ、すぐに来てくれるかどうか

多摩川のほとりの小さなお祭りで筍ごはんを買い、公園のベンチで食べるとまた青梅線に乗りこんで終点・奥多摩駅へ。

東京の西の果て。ここはまだ都内であるということに何度でも驚いてしまう、郊外よりも郊外の地である。さすがに沢井駅前よりは人通りがあるものの、ビジターセンターとその駐車場に居並ぶバス群の他は、薄暗い商店の前に山葵などの野菜が段ボール箱に入れられて売られていたり、食堂という呼び名がふさわしい飲食店があったりと、あまり観光地化している気配もない。

宿は駅から歩いて5分のところにある荒澤屋というところ。駅を出て多摩川にかかった橋を渡るのだが、沢井とは違って、川は橋からはるか下を流れ、駅前なのにすでに渓谷の様相を呈している。その川を見下して橋を渡るとすぐに宿が見えてくる。とりあえず宿に行って荷物を置き、それからまた遊びに出ようと言う算段である。

宿でおばちゃんに迎えられ、荷物を置かせてもらうと、日原鍾乳洞に行くためのタクシーを呼んでもらえないかお願いした。おばちゃんが少し顔をしかめて「タクシーは一台しかないですからねえ、すぐに来てくれるかどうか」と言いながら電話してくれた。幸い、タクシーはすぐに来た。村に一台しかないタクシー。しかもそれがすぐに来るというところにも、観光地化していない実情が垣間見える。

日原鍾乳洞へ行くためには、実は路線バスもあるのだが、本数が少ないため、次のバスを待っていると一時間を無駄に過ごすことになる。しかも平日はバスが鍾乳洞の近くまで行くのに、休日はその2つ前の東日原という停留所までしか行かないのだ。なぜ稼ぎ時である休日に鍾乳洞までバスが行かないのか、我々は首をひねったが、その理由はのちほど明らかになる。

5 ったく、つっこんでくればいいってもんじゃねえんだぞ、このやろ う

タクシーの運転手は我々と変わらないくらいの年齢の、つまり20代くらいの若々しい男だった。話すときの声が大きい。田舎育ちの豪胆さがある。この人を絵で描き表すとしたら、強く太い線で輪郭を描くのがいいだろう、と思える、そんな人柄だ。

S井は酒が効いたのか後部座席で眠りこんでいる。運転手さんの話によれば、鍾乳洞へ向けた道は、山を抜けてどこかに通じるということがなく、袋小路になっているために、鍾乳洞や釣りに行く観光客か地元住民しか使わないと言う。地元住民と言っても、若者はみんな拝島あたりに出てしまうので、じじばばしか残っていない、とのことだった。都内でそんな較差が発生しているということに驚く。

道はほとんどがうねるような山道で、底知れぬ谷が助手席から見え隠れする。谷の向こうには緑の山が果てしなく並んでいて、町というものがどこにも見当たらない。最初の方では対向車とすれ違うだけの十分な道幅があったものの、進むにつれて道幅が狭くなっていった。

乗用車が向うから来てすれちがった。その乗用車のすれ違い方がどうやら下手だったらしく、
「ったく、つっこんでくればいいってもんじゃねえんだぞ、このやろう」
と運転手さんが隣で悪態をついた。若干びびる。

途中で交通整理をしているおじさんに出会った。彼は、ここから先では車が対向車とすれ違うことができないために、トランシーバーで山道の先にいる相方とやり取りして、事故や立ち往生などが起きないように整理しているらしかった。そのおじさんに止められて、山道を下ってきた路線バスを路肩でやり過ごした後でさらに先に進む。彼は路線バスの会社に雇われているのだ、ということを運転手さんが教えてくれる。

休日は鍾乳洞まで行く観光客の車が多く、バスが完全に立ち往生してしまうために、鍾乳洞よりも手前の停留所までしか行かないそうだ。道幅の狭さというのはここ奥多摩を考える上で思った以上に決定的のようだ。これだけ道幅がせまいと、物資を通すこともままならず、観光地化を免れているという側面もあるらしい。

道は小さな集落に入った。人通りはほとんどない。村と称するよりも、集落という言葉の方が合っているように思えた。建物は全部で50戸もないのではないか。この集落の中に、東日原の停留所があるのだった。運転手さんいわく、3分の1は空家だそうだ。ここでどんな暮らしが営まれるのか、僕には想像もつかなかい。

(後篇に続く)

1 comments:

野村麻実 さんのコメント...

お酒は江戸時代の初期まで濁り酒だったんです。
それで、伏見の酒造の丁稚が、腹立ち紛れに灰をちょうど作り中のお酒のたるの中に放り込んで夜逃げしたんですけれど、翌朝見てみると、なんと濁りがない綺麗なお酒(清酒)になっていたんですよね。

だからなんだ?
といいますと、織田信長とかが清酒を飲んでるドラマは大嘘だということです。

ええ。だからなんだ?お酒好きなんだもん!


>元禄は、確かに大吟醸などに比べて雑味のようなものが混じっているようにも感じられるが、それが逆に独特の味わいを醸し出している。

参考になりました(笑)。