2010-06-06

『俳句』2010年6月号を読む 五十嵐秀彦

〔俳句総合誌を読む〕
対立軸なき現在
『俳句』2010年6月 号を読む

五十嵐秀彦


俳句総合誌の特集というと、座談会があって、論考があって、エッセイがあって・・・、というスタイルが多いのだが、今回は座談会一本で特集と銘打っている。それだけインパクトのある企画だ、という編集サイドの気迫なのだろうか。

特集・座談会 若手俳人の季語意識 季語の恩寵と呪縛  p67-

榮猿丸、鴇田智哉、関悦史、大谷弘至。
顔ぶれを見て、ほぉと思った。
大谷ひとりが昭和50年代生まれで、他の三人は昭和40年生まれである。
驚くほうがおかしいので、この世代に光を当ててゆくのが俳句総合誌の役目のひとつだろう。
結社の主宰たちのサロンのような企画にはうんざりしていたので、今回の座談会には期待が持てた。

最初は、このメンバーを集めておいて「季語」かよ、とも思ったが、読んでみるとこの四人はそれぞれに独自の季語観を持っているので、単なる「季語」雑談というのではない内容になっている。

あえて無季句を作ってみた鴇田、現実より純化したイメージとしての季語を詠むことを自分の姿勢としている大谷、孤立した位置で季語の効果を実験的に見つめている関、モチーフを優先した上で「偉大な引用」としての季語をとらえる榮。

この四人が実作における季語のあり方について、かなり有り体にものを述べている。それぞれの言っていることは微妙に(あるいはあきらかに)異なっているのだが、ところがそれが不思議と対立点とならずに座談会が進んでしまう。

あ、これはある意味、実に今風の座談会なのだ、と思った。
これほど自分の考えを持っていながら、異なる姿勢の作家と話していて論争にならないというのは、今の時代に不思議でも不自然でもないのだ。
それを物足りないとか、草食系とか言うむきもあるだろうが、私はこれはこれで良いように思う。
結論を出そうと議論した挙句、実作から遥かにかけ離れた空論に終始するよりはましである。

この座談会の中で、対照的だったのは、「季語に寄りかかって俳句を作ってきた」と気になってしまいあえて無季句に挑戦した鴇田智哉、「季語は指揮者にとっての楽譜」のようなものとして季語中心に傾き、一句の中に季語を重ねることを試みている大谷弘至の二人の姿勢だ。
もともと無季派だった作家とは違い有季の人が無季をまとめて作ったり、季重なりを承知で季語そのものに執着していくというアプローチは、これまであまり表に出ることのないものだったのではないか。
それにしても季重なりの挑戦というのは呆れるものがあったし、大谷の季語にかける尋常ならざる思い入れについては、たとえば鴇田が「大谷さん、大変でしょう」と声をかけるほどであった。

この座談会はなかなか長く、話は多方面に移り、この場ではまとめようもないし、まとめる意味もないのでぜひ読んでみていただきたい。
ただ、つまらぬ論争よりこっちのほうがましだとは言ったものの、もう少しつっこんだ議論をひとつふたつすれば、それぞれのもう一段深いところの考えが浮かび上がってきたかもしれない。

それと、ここにホトトギス系の俳人が入っていないことについてちょっと考えさせられた。
入れても良かったのにと思う反面、その必要性が無いという印象もこの座談会から受けた。
ここに集まった四人が四人とも結社色や師系を感じさせないことや、かつての反ホトトギスのような対立軸をまるで前提としていないというところに、これが「俳句の現在」であるのかもしれないと思ったのだった。

また別なテーマで、この世代の座談会が読みたいものだ。


 春泥を来て汝が部屋に倦みにけり    榮猿丸

 まちなかにこまかい塵の降るむかし   鴇田智哉

 雪踏んでまた狼を撃ちにくる      大谷弘至

 灯らぬ家は寒月に浮くそこへ帰る    関 悦史


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