2010-06-20

『現代詩手帖』2010年6月号「短詩型新時代」を読む 五島諭

〔詩誌を読む〕
短詩型新時代覚書
『現代詩手帖』2010年6月号を読む

五島 諭


「現代詩手帖」2010年6月号の特集は「短詩型新時代」。「詩はどこに向かうのか」という副題に興味をそそられる。高柳克弘氏、黒瀬珂瀾氏のゼロ年代俳句・短歌100選や各対談も面白かったが、個人的には「詩のありか俳人篇」の各文章が特に印象に深かった。相子智恵、関悦史、鴇田智哉、冨田拓也の四氏がそれぞれの立場から俳句観、言語観を語っていて、俳句の生まれる場面が門外漢の私にも垣間見えるような気がしてくる。

関悦史「現代詩読者から俳句作者への漸進的横滑り」は、韻文諸ジャンルの特性を考える上でも参考になる。次のような箇所に目をとめた。

俳句は自由詩と比べ、世界とむき出しで対峙せずに済ませることも容易に出来る。~略~説話論的持続を最低限に減殺し、断裂・飛躍を呼び込む形式自体に「世界対私」という枠組みを明るみへと溶融させる契機があるからである。

〈明るみ〉という言葉に頷く。たしかにジャンルを一つの集合として見ると、俳句の言葉は明るく開けている印象がある。断裂というのはたぶん狭義では「切れ」のことなのだろうと想像するのだが、それは俳句の物理的な短さが要請するものでもあろう。言葉を足していくごとに物語が生まれ、それが書き手の自我を中心に渦まきはじめると、世界は重く暗くなっていく。これは、短歌実作者の端くれとして身に覚えのあること。関によれば、季語もまたこの渦巻きを回避し、〈大我なり他界なりへと主体を開〉くための一装置だという。季語を精神の技法として語っているのが新鮮だ。分析は続く。

詩と関わるとは、個人の生の悲苦、縁あった他者やものたち、物と言語、永遠、それら全ての次元を横断しつつ非予定的に調和を組織せんとし続けられる営みであろう。

この言葉を念頭に置きつつゼロ年代の俳句100句選をながめてみる。すると〈非予定的調和〉ということの、難しさが見えてくる。

水遊びする子に先生から手紙  田中裕明 

手紙を読むという場面は、室内の方が自然なのに、水遊びに取り合わされることで、不思議な空間が出現する。水遊び中の子供は手紙をまだ受け取っていないのだろう。手紙とは関係なく水遊びする子供と、それでも確実に届いている手紙。読者はその両方を俯瞰できる立場からこの光景を眺めることになる。それは世界の外側から世界を眺めることに似ている。その立場は現実にはあまりにも存在しがたい立場であって、まぎれもなく言葉による表現のみが切り開くことのできる地平だと思う。手紙の神々しさは言葉が切り開いた神々しさでもある。
 
同じ作者でも、それほど成功していないように思える作品もあった。

あらそはぬ種族ほろびぬ大枯野  田中裕明

水遊びの句を読むときにあった、私は偶然この場面を目撃している、という喜びがこの句には感じられない。どうも見知った光景を見せられているような気がしてしまうのだ。〈あらそはぬ種族ほろびぬ〉と〈大枯野〉との調和の仕方が予定的だからだろうか。そうすると、〈非予定的調和〉というのは、偶然性ということとも大きくかかわっているような気がしてくる。
 
一句一句では面白く読めるのに、同じ百句の中に並んでいると新鮮味が減るのではないか、という作品も。アンソロジーの特性だろうか。

春は曙そろそろ帰つてくれないか  櫂未知子
葛の花来るなと言つたではないか  飯島晴子
もっときれいなはずの私と春の鴨  正木ゆう子
目覚めるといつも私が居て遺憾   池田澄子

どの句も口語を生かした語り口に味わいがあって個人的にはとても好きだし、それぞれ個性的だと思う。だがアンソロジーという限られた並びの中で、〈断裂・飛躍〉の導入の仕方がほんの少しでも似ていると、開かれる〈大我〉あるいは〈他界〉の質も似ているように映ってしまうのだろう。そうなると〈非予定的調和〉が〈非予定的調和〉として機能しなくなる。〈非予定的調和〉というのは実は相対的なものであり、絶えず揺れ動くものなのかもしれない。



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