新撰21の20人を読む 第9回
山口優夢
1
吊り革のしづかな拳梅雨に入る
彼の100句にはしずかに流れる気配のような不穏さが漂っている。
花の上に押し寄せてゐる夜空かな
空というのはそこにいつでも「ある」ものであり、決して「押し寄せて」くるようなものではない。「押し寄せて」くるという言葉は、必然的に、どこからどこへという方向性や他のものを圧するような重量感を伴う。「夜空」というものに方向性や重量感を見出したこと。それがこの句に表出された感性の特異な点である。
「花」、すなわち桜の、これはおそらく並木ではないか、それが彼自身を包みこむようにわあっと咲き誇っている。そしてその先にある夜空は、とめどもなく、彼と、それからその周りにさんざめく桜並木を圧するように、押し寄せ、集まり、密度を濃くしてゆく。夜空というものの定めなさ、そのくせそれは、自分たちを圧倒し、自分たちに否応なくのしかかってこようとする。
そこに表明されているものは、紛れもなく世界の不穏さに対する不安、であろう。どこかデリケート、と言うよりも、神経質なところを感じさせる俳句だ。
うしろより手が出て恋の歌かるた
五月病草の匂ひの手を洗ふ
電柱のうしろに冬の来てゐたり
うしろからぬっと手が出てきて恋の札を取ろうとする、そのあやうさ。五月病という季語の世界観が、草の匂ひの手、という一見健康的なものに対して、草の汁の独特のえぐみを生々しく感じさせる役割を担っているようだ。どこに冬が来ていると言うと、最も生々しく冬の寒気や風を思い出すか。東京の片隅で育った僕にとっては、電柱のうしろという、実に素っ気なくつまらなく少し陰翳の深い何の情緒もない場所に来ている冬というのは、その灰色な感じが実によく体感できる気がする。そして、その「灰色のなにものか」は、「風」でも「寒さ」でもない、そのような分かりやすいものではなく、「冬」という得体のしれな いものなのだ。
もちろん、100句の中には
伊勢海老の髭の先まで喜色あり
のようにめでたいものをうやうやしくめでたく詠っているものもあったり、
初夏の木々それぞれの名の眩し
のように、掛け値なしで生命の息遣いを肯定的にストレートに表現した句もあったりするものの、これらは、じかに自然と向き合っている句ではないからこそ生れ出ている明るさのように感じられる。
どういうことかと言うと、季語としての伊勢海老というものは、正月のめでたさを祝うものであり、この句でもそれが念頭に置かれて創られている。伊勢海老に喜色が満ちているという感じは、彼の中にある季語体系的価値観を前提として生れているのはまず間違いないであろう。また、初夏の木々が眩しいのではなく、それぞれにつけられた名が眩しい、と言っていることから、これらの木々を眩しく見て名前をつけたのであろう名も知れぬ人々が無意識的に呼び出されていることになる。つまり、見ているものは実際には木々なのかもしれないが、それらを「先人たちの意識」というフィルターを通じてみているという点において、この句は伊勢海老の句と共通の視点を持っているのである。
それ自体は別に不思議なことでも特異なことでもない、俳人であれば季語の情緒や前提とする情感のようなものを踏まえるのはむしろ当然のことであろう。しかし、最初に挙げた数句、花の上に押し寄せる夜空や、電柱のうしろに来る冬といったものは、先人たちの意識というフィルターを突きぬけて世界そのものがこちらに迫ってくるような実感がある。それらはしかし、フィルターを無視して横から割り込んでくるのではなく、あくまでもフィルターを突き抜けて来るのである。つまり、「花」という季語の持つ儚さや、「冬」の寒さわびしさといったものを前提にして句が作られていることは間違いないのでだが、これらの句で書こうとしているポイントは、むしろ季語の情感そのものではなくそれらを通じて迫ってくる不穏な世界そのもののように思えるのだ。
その典雅で古格正しい句姿に一見隠れてはいるが、大変ナイーブな、それこそ青年らしいと思わせられるような、そういう感性、ある種の線の細さを感じさせる句が多く見られる。
たんぽぽの絮をこはさず雨のふる
空はまだ薄眼を開けて蚊喰鳥
鴨撃つて揺るる日輪水にあり
今にも壊れそうに思えるが壊れない、雨の中のたんぽぽの絮。「こはさず」という旧仮名が、そんなたんぽぽの絮のもろさや危うさを存分に表現しているように思える。
「空はまだ薄眼を開けて」という比喩が、単に夜は眠るものだから空も夜は眠るだろう、でもまだ暮れきっていないから空も薄眼を開けているよ、などという風にのみ受け取ったら、実につまらない句だ。いや、もちろん、第一義的にはそのような読みを前提として作られているに決まっているが、僕としては、もっと生々しく、暮れてゆく空に浮かぶ巨大な薄眼を想像したい。仏の半眼のような。なんて得体のしれない、不気味な景色だろうか。そこを飛び回るこうもりの群れ。
日輪という地球上の全てのものを統べる存在が、鴨を撃つという行為ひとつで不安定に揺れてしまう世界。水が揺れたと言わずに日輪が揺れたと言うのはもちろんレトリックの妙であるが、そのレトリックが志向するのは、この世界の不穏さ、不安定さではないのか。
芒原百年のちの風と思ふ
風芒風芒われ消えゆけり
これら二句は、彼の句としてはレトリックがやや平板に思えるものであり、必ずしも成功作とは言えないようにも思えるが、彼が世界に対峙しているその姿勢をよく表しているように感じる。百年のちの風、芒と風の中に消えてゆく我、これらの句からは、彼が、広大で自分とは関わりなく過ぎてゆくかのように思える「世界」の中で自分の存在というものをひどく小さなものに感じていることがまざまざと見えてくる。そして、そういう広大な世界の中に自分を溶け込ませることを決して肯定的には捉えていないために、伝統的で古格正しい句姿の中にほのかな憂愁や深い陰影が通う余地が生れるのではないか。
枯蟷螂人間をなつかしく見る
ガラス戸の遠き夜火事に触れにけり
どちらもやや図式的に過ぎる憾みはあるものの、現在までの彼の句の中でも確かに一二を争う代表句と言っていい句であろう。枯蟷螂もまた、彼同様に世界から追放された者なのであろうか。彼の句では珍しく、他者(枯蟷螂)に交感しようとする意志が見られる。つまり、彼自身がこの枯蟷螂に心を寄せているように見える。でも、心を寄せる対象が蟷螂ではなくて「枯蟷螂」であることが「本当に心を寄せている」のではなく、「心を寄せようとしてしまう彼自身の孤独」を映しだしてしまっているところが、この句の徹底した寂しみを描き出す。
小さく遠い火にひんやりと触れてみせる彼は、どこまでも一人きりだ。距離を隔て、さらにガラス戸を隔てた夜火事は、美しさしか残さない。逃げ惑う人々、必死で消火に務める人々、崩れゆく屋根、飛び交う悲鳴と怒号、そういったものの一切をここでは捨象し、ただ、夜の闇にぽっと浮び出た美しい斑点のようなそれを、彼は愛でている。こういう孤独は、やや甘さがあることは否定できないが、それもひっくるめての美しさがあるだろう。
ここで、冒頭に掲げた句、
吊り革のしづかな拳梅雨に入る
この、どこにも行き場のない拳のむなしさはどうであろうか。列車の車窓にはどんよりと重たい雨雲。高く掲げた拳は、ただ吊り革につかまるだけ?いや、それが当たり前なのだ。この手は今、ただ吊り革につかまるだけのためにある。そこに何の問題があるのか。でも、それでもこんなふうにそれを憂えてしまうのは、「しづかな拳」というこのレトリックの圧倒的な迫力による。
彼は世界のどこにも受け入れられない。そんな傷ついた心を冷酷に描くのもまた、彼自身なのである。
作者は村上鞆彦(1979-)
2
地はたちまち化石の孵化のどしゃぶり
言葉の連なりが想起させるイメージの飛躍が面白い。
句の表現の中で眼目になるのは「化石の孵化」というところだろう。死が生に連なってゆく。そのエネルギーが「どしゃぶり」という語を引き出す。実際の景色を写し取ったというよりは、言葉の躍動が映しだした幻影に近いものだろう。
乱暴とも見える言葉のつなぎ方によってイメージを躍動させるのが彼の句の作り方であるようだ。
蟇子らの瞳は銃口か
原爆は開けぬ瞼地球泣く
爆音の缶コーラ星屑の悲鳴
これらの見立てや強引な言葉のつながりは、言葉の迫力が先行してしまっているという印象をぬぐえないが、その詩的イメージの躍動は興味深い。
興味深いは興味深いが、実はこれらの句は、僕には読み切れない部分が大きいかもしれない。子らの瞳は銃口か、というフレーズに込められているのは、子供たちに対する畏怖や恐れのようなもの、あるいはなにかしらの断絶のような感じ、子供たちの底知れぬ悲しみとかそこからぽっかり開いている底なしの負の感情のようなものなのだろうが、その読みをどういう方向に持って行ったらいいのか、それを決定づけるのに「蟇」という季語がどのように働くのか、僕にはちょっと分からない。
それに対して、二句目の「原爆」の句では、「原爆は開けぬ瞼」というフレーズは、原爆そのもののずんぐりむっくりした爆弾の形を思わせもするし、大変不穏なものを孕んでいると言う意味で面白い、「開けぬ瞼」と言うことで逆説的にその奥にある瞳の眼差しを思わせるところなども心憎い、と思っている。しかし、「地球泣く」という下五のおさめ方は、いかにも陳腐にすぎないだろうか。地球が泣く、という言葉に心から迫ってくるようなリアリティーがないし、「瞼」から「泣く」というイメージへのつながりも見え透いてしまう。
つまり、七・五や五・七で築いたフレーズの面白さが、残りの五音で報われていない場合が結構あるように感じてしまうのだ。蟇の句のようにつながりが意味不明にもならず、原爆の句のように陳腐になることもない距離感の句はないだろうか。
と思って見てみると、次のような句がある。
蜘蛛の巣の雨は果肉だ春の風邪
月はトランペット果肉の僕ら踊る
轟音の鼠となり空齧るフェンス
蜘蛛の巣が雨に濡れ、水滴がびっしりとついている様子を果肉と捉えたこと、そして、そんなとりとめない妄想にふける自分が春の風邪をひいた状態であること。やや俳句的に常套なつながりではあるが、そこはフレーズの面白さで十分鑑賞に耐える一句になっている。二句目の「トランペット」と「踊る」の類語的関係は心地よい。とある楽しい、はかない一夜、という感じだ。轟音の鼠、が基地を飛び立った戦闘機なのだろうなと思えるのは「フェンス」の一語があるからで、しかもこの句の力点になるのは鼠という見立てから引き出された「空齧る」という表現であることを考えれば、戦闘機の不穏さを一句全体でもって余すことなく伝えていることが分かる。しかも、「フェンス」の一語は単に場所設定として効いているだけではなく、フェンスを意識することで戦闘機の飛びたつ基地とは隔てられた自らの意識のようなものもきちんと見せている。
このような詩の方法がくっきりと焦点を絞られたとき、そこに立ち現れるのは世界の不穏さであり、その中でしっかり生きてゆこうという彼自身の意思であるように思える。「化石の孵化」の句は、不穏さが一転して生命力に転化する句として、とても面白いと思った。もちろんそれは大変強引なやりくちではあるが、それも含めて彼の魅力なのだろう。
作者は豊里友行(1976-)
邑書林ホームページでも購入可能。
5 comments:
山口優夢さんへ
私の俳句は難解なのかなぁ~。
強引な俳句(男)と捨て置かれるのは無念。
気になるのは難しい俳句だとしても鑑賞する以上は言葉を咀嚼すべきだと私は考えます。
言葉を軽んじていては今の俳句界の大量生産されるマスターベーション俳句(快楽的な俳句思考)になってしまう。
必ずしも子供をつくるのが美徳とはいえませんが、やはり私は私なりの俳句世界を孕み、俳句鑑賞の種を育てたい。
ずばり歴史に残る俳句を創りたい。
私の俳句は強引に見られがちですがもっとじっくりと鑑賞されるといいなと思います。
たとえば私は内容の切れを重視しています。
つまり内容の飛躍を無しには豊里友行の俳句は語れないほど言葉を省略しています。
小説ではない俳句の長編物語を凝縮してみたいのです。
比喩が多いのは内容の深化を目指すためです。
読み解く糸口としては、「絵画を鑑賞するように俳句鑑賞」していただけると幸いです。
俳句を文学として創造したいと私は考えています。
俳句作品の深さ、新しさ、モノやコトへの真実にどれだけ肉薄できるかなど私は俳句創作と俳句鑑賞で重視しています。
とはいえ多作に駄作も否めません。
至らない点も多いですがこれからもどうかよろしくお願いいたします。
豊里さま
コメントをお寄せくださって、どうもありがとうございます。こういう長丁場の連載記事ですと、やはりなんらかの反応がないと執筆のモチベーションを維持するのが難しく、こういうコメントをいただけるのは大変ありがたいです。
さて、私の鑑賞に反発がおありのようですが、私は豊里さんの俳句を「強引な俳句(男)と捨て置」いているわけではありません。言葉の連結の強引さが豊里さんの俳句の方法の核になっているものと思ったのでこのような書き方をさせていただいたわけで、強引で難解だから全然ダメ、ということが言いたかったわけではない(そもそも「難解」という語は本文中で一回も使っておりません)。それ、伝わらなかったでしょうか。だとしたら、僕の書きぶりはまだまだ未成熟なので、ご海容願いたいと思います。
強引な俳句でも優しい俳句でもなんでもいいのですが、やはりそこで何を体現しようとしているかが一番重要ですし、僕にとっては興味深いところであります。化石の孵化のどしゃぶり、あるいは轟音の鼠、といった句の強引さは、その言葉の躍動によって、生命感やフェンスの向うの不穏さを存分に引き出していて、僕は面白いと思っています。ただ、「蟇」の句や「地球泣く」の句では、折角のフレーズの面白さが、単にフレーズが面白いということろで止まってしまい、「モノやコトへの真実」にあまり肉薄できていないのではないですか、と(ずいぶん余計なお世話ですが)指摘したかったのです。
と言うか、「山口優夢さんの俳句の方向性は私の俳句の進路と交差することがないであろう」なんて寂しいことを言わずに、豊里さんもぜひ豊里さんの方法での俳句鑑賞を週刊俳句に寄せていただけませんか?絵画を読み解くようにじっくりと俳句を読み解く、そのような胆力は確かに私にはまだ備わっていないものかもしれないので、ぜひ学ばせていただきたく思います。
またご連絡差し上げます。
優夢
山口優夢さまへ
「強引な男」という言い方失礼だと思います。
俳句という分野がいかに短い言葉だからと言って俳句鑑賞において初対面でないにしろ人の人格を傷つける言葉使いが悪い。
「優しい俳句」と私は言っていますが私は山口優夢さんを「安易な言葉使いをする」俳人だなと感じてしまいました。
まず山口さんは人の気分を害して語りたかったことが何かをコメントをいただくまでわかりませんでした。
そのような安易な言葉使いをしながら「やはりそこで何を体現しようとしているかが一番重要ですし、僕にとっては興味深いところであります。」と言われても私はまず友好的に山口優夢さんの俳句鑑賞に付き合いきれない。
そういう言い分を聞くほどお人よしではありません。
山口さんの言う「言葉の連結の強引さが豊里さんの俳句の方法の核になっているものと思ったのでこのような書き方をさせていただいたわけで、強引で難解だから全然ダメ、ということが言いたかったわけではない(そもそも「難解」という語は本文中で一回も使っておりません)。それ、伝わらなかったでしょうか。」と語るあたり残念ながら私には伝わらなかったです。
俳句の方向性が違うのかと私は思います。
売り言葉に買い言葉ですので私は山口優夢さんの俳句感をマスターべション俳句(快楽的な俳句思考)だと思います。
自分が気持ちよければいいという言葉の姿勢。
「絵画を読み解くようにじっくりと俳句を読み解く、そのような胆力は確かに私にはまだ備わっていないものかもしれないので、ぜひ学ばせていただきたく思います。」と仕立てに出ている割に横柄な態度の鑑賞を続行して行きそうな山口さん。
胆力じゃなくて俳句を読んで楽しむ姿勢(ここで「楽しむ」というのは理解しようとする姿勢のことですよ)がないなら鑑賞が失礼なのではと私は思います。
私も俳句鑑賞の修行中です(笑)。
( http://toyoanneru123.ti-da.net/e3056811.html )
俳句以前のことを目ざとく私は言っていますが上記した点で今の山口優夢という俳人とは、週刊俳句とは付き合い切れません。
豊里さま
失礼しました。
私としては、強引な、という言葉を豊里さんを貶めるつもりで使ったわけではありません。むしろ、詩の方法として大変興味深いと思い、それを表現するためにこのような書き方をさせていただきました。ご容赦願いたく思います。
確かに私は下手に出ながら横柄だったり、安易な言葉遣いをしてしまっていたりすることがあると思います。ご批判はしっかり受け止めて、私も精進いたしたいと思います。
不快な思いにさせたかったわけではありません。それは分かっていただけるとありがたいです。でも、結果としてそうなってしまったなら大変申し訳なく思います。私は俳句鑑賞を書くとき、批判的な書き方をすることもありますが、それが明日の俳句のためになると信じて書いています。誰かの俳句のため、というちっぽけなものではなく、ただ、「俳句」そのもののためです。
しかし、それによって作者の方を不快にさせてしまったとしたら、それは私に非があります。全面的に、そのご批判を受けて、次からはもっと丁寧な書き方を目指したいと考えています。
長くなりましたが、この辺で失礼いたします。
優夢
山口優夢さま
こちらこそ言い過ぎました。
すみません。
山口優夢さんの俳句批評が俳句の世界を広げることを願います。
俳句鑑賞に完璧はありませんが、人から学ぶ点が多いとしても主体的にじっくりと俳句を丁寧に鑑賞していかないとただの揚げ足取りで終わってしまいかねません。
お互い俳句道を精進しましょう。
とり急ぎまで。
コメントを投稿