2010-06-13

スズキさん 第22回 夕日に向かって走れ 中嶋憲武

スズキさん
第22回 夕日に向かって走れ

中嶋憲武


手と手が重なった。スズキさんの手は柔らかく、すべすべとしている。

先ほど取引きのある印刷所で、刷りたての和菓子の包装紙を断裁しに行った。印刷所の片隅に設置してある断裁機を借りて、指示書通りにスズキさんが断裁する。俺はその断裁された包装紙の束を、停めてある車の荷台へ持って行って積むのだが、包装紙はだいたいが薄い紙が多く、500枚ともなると持つと真ん中あたりで撓んでしまってバランスを失って持ちにくく、無意味に重い。当初はまったく難儀したのであったが、スズキさんが紙の持ち方を教えてくれ、その通りに持つと難なく持ち運ぶことが出来た。紙に一本芯を通すような持ち方だ。こうやって持つと、どんなに大きな判の包装紙でも容易に、目方を軽く持つことが出来る。世の中のありとあらゆる物事には、このような秘訣というかコツがあるのだ。それを掴めるか否かによって、状況は大きく左右される。

5連の包装紙を500枚ずつ仕切り、それぞれ指示書通りに断裁された紙を持って車まで数メートルの距離を歩く間、焼きたてのパンのいい香りが鼻を突く。隣はパン工場で、販売もしている。いつだったか買ってみたことがあるが、美味しいパンだった。茨城県や神奈川県からも買いに来る人があるようだ。ジャガーやハーレーダビッドソンに乗って来る人もある。有名店なのかもしれない。

断裁がすべて終り、荷台はいっぱいになった。会社へ持ち帰り、きれいに包んで納品するのだ。穏やかな土曜日の、これから11時になろうかという頃、ゆるゆると国際通りを走る。
「猫、元気」とスズキさんが聞く。
「はあ、元気っす」と答える。昨年の暮れに知り合いを通じて、三毛猫を手に入れていたのだ。あきる野市あたりで野良猫をしていたところを捕獲されて、府中の獣医さんへ連れて行かれ、そこで里親を探しているという情報を知り合いから聞き、引き取ることにしたのだ。猫が家へ来てからというもの、昼間仕事をしていても今頃猫どうしているかなと猫のことばかり気になってしまう。猫にかまける日々になってしまった。
「名前、なんだっけ」
「ランちゃんです」
「何のランだっけ」
「ミケランジェロのランちゃんです」
「そうだったそうだった」
スズキさんもかつて猫を飼っていたことがあるそうで、野菜を煮たのをたまにあげていたそうだ。どうしても野菜が不足するからね、ナカジマくんもそうしてあげるといいよとスズキさんは言った。俺は、はあと気のない返事を返した。

会社へ帰り、倉庫で紙の包装にかかった。新聞紙を半分に畳んだほどの大きさに断裁された包装紙を、新聞紙1面ほどの大きさのハトロン紙で包むのだ。厚さは10センチほどだ。スズキさんは、器用に包装して行く。俺は水張りテープを水につけて、適切な長さにカットして用意したり、ハトロン紙の端を持って補助したりしていた。ナカジマくんもやってみるかとスズキさんは言った。俺は元来不器用なタチで、思った通り紙をきれいに折り込むことが出来なかった。見兼ねたスズキさんが、紙の端をこう、つまみながら中へ折り込んで行くんだよと助け舟を出してくれた。

倉庫の斜向いの商店が内装工事をしていて、イントレが組まれている。そのイントレに一人の若い工夫が立って、三階から降ろされる壁材を受け取って、受け取るたびに何か声を発していた。スズキさんはそれを聞いていて、こう言った。
「向こうの言葉だね」
「向こう?」
「外人だよ。多分。エルヤッタって言ってるでしょ」
「エルヤッタ?」
スズキさんには、若い工夫が東南アジア系の国の人に見えたのかもしれない。エルヤッタという単語を聞くと、俺も彼が東南アジアの人に見えてきた。
俺は耳をすまして聞いてみた。俺には、はい終ったと聞こえたので、スズキさんにそう言ってみると、
「終ってないよ。まだ作業続いてるでしょ」と言った。俺はもうすこしよく聞いてみた。すると何て言ってるのか判然としてきた。「はい、もらった」と言っているのであった。壁材を受け取るたびに、その若い工夫は確認のために、三階へ向かって「はい、もらった」と声を掛けているのだ。それが勢いよく発せられており、独特のイントネーションを持っているため、よくよく聞かないと分からないのだった。

「ほら、端を持たないと。こうだよ」とスズキさんが手を添えながら実地にコーチしてくれている。そのたびに俺の手に、スズキさんのやわらかい手が触れる。スズキさんのコーチの甲斐あってか、俺の包装もなんとかきれいに仕上がるようになった。ぴしっと端が揃うと、気持ちいいだろとスズキさんが満足そうに言った。

夕方はスズキさんの納品を手伝うことになった。助手席に座って空を見ていると、素晴らしい夕焼け空だった。気味が悪いくらいよく出来た夕焼け空なので、なにか不吉な前兆のような気もしないではない。谷中を走っていたのだが、スズキさんがふと、この辺に夕日が沈むのがよく見えるところがあるよと言った。納品が終ったら行ってみようかと言うので、俺は内心すこしわくわくした。

納品が終ると、最前より空の赤みが消えかかっている。もうすぐ日没の時間だ。そこの路地、曲がったところだよと言って、スズキさんは車を停めた。空に闇が忍び寄ってきている。車のなかで、スズキさんはもう沈んじゃうかもしれないねと言って、そわそわとした様子だった。車を停めると、すぐそこだからとスズキさんは車を降りて走り始めた。俺もスズキさんの後を追って走り始めた。すぐそこまでは、だいぶあった。俺は作業場ではいつもサンダルを履いていて、そのまま納品に出てしまったので走りづらく、こんなことになるのだったらスニーカーを履いてくるのだったと思った。スズキさんとの距離が開く。俺は懸命に走る。夕日は気になる。サンダルは脱げそうだ。スズキさんにやっと追い付くと、そこは富士見坂という坂の上だった。ビルの陰にちらりと光る最後の陽光が認められた。スズキさんも俺も、荒い息をしながら、西の空にわずかに残った夕焼けを見ていた。

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