【週俳5月の俳句を読む】
「の」のエロス ……三宅やよい
「鬼が部屋の戸からよりで」中間試験の前はひたすらこの呪文を唱え続けていた。この短文に名詞の多い俳句は方向づけでお世話になることが多い格助詞が網羅されている。よく俳句の指南書に「文法は正しく」と書かれているが、それを見るたびこのまじないを唱え続けた退屈な文法の授業を思い出す。正しい文法を逆説的に文脈に生かすことこそ俳句のレトリックであり、そうした使われ方をして初めて俳句に使われる助詞は浮かぶ瀬があるだろう。「の」の効用については≪『陸々集』を読むための現代俳句入門≫で仁平勝が詳しく解説している。(以下引用)
「の」が意味を拒否するというのは、それが意味を無限に拡大させるといっても同じことだ。ともかく「AのB」といえば、そこで直ちにAとBの関係が成立する。辞書を引くと「の」の用法がじつに多いのは、もともとそれが意味のあいまいな言葉だという証拠でもある。~中略~その拡大した意味に収拾をつけてくれるのが五七五の定型律なのである。つまり「‥‥の」はそこで俳句的な喩を手に入れ、散文の場所では通用しなかった新たな意味を主張するようになる。
作品を横に読んでしまうのは邪道だろうが、「二輪草」の各作品には抑制されたエロスが主調音とし流れており、一つの物語として読む欲求を抑えられなかった。躙り口から招かれる二輪草、薄暗がりに置かれた日傘、忘れられた夏帽子。不倫、とか密通という言葉が死語になりかけているからこそ、ノスタルジックに感じられるエロスに惹かれた。そんな言葉を効果的に引き立てるべく各句に使われている三つの「の」に注目した。
春山の姉は小さな光食べ 渡辺誠一郎
冒頭に置かれた句。春山の「の」を軽い切れで読むと、春山は取り合わせの背景として後退してしまう。「や」の強い切れを曖昧に和らげるため「の」が使われる場合は多々あるが、この句の「の」は違うだろう。春山である姉とでも読もうか、句跨りで緩やかに下の叙述につながっていく。そうすればまだまばらな木々を透かして地に落ちるうそ寒き光を拾って食べている姉。恋の対象として禁忌の存在である姉が春山そのものとオーバーラップしつつ、ぼんやりした輪郭で浮き上がってくる。
明易の情欲である大絵皿
明易のような情欲であろうか、夏暁の白っぽい空のところどころに青空がのぞき時には朝焼けが雲を染める。そのようにまだらな情欲が朝方の自分の身の内にしずかに湧きあがってくる。夜のどろどろとした情欲、ではなく淡く白けた感触がある。そうした観念的なイメージを下五の「大絵皿」でぴしりと決着させている。この大絵皿の存在感!ところどころ金を配した伊万里焼の皿なんぞがいいかもしれない。
昼寝の首が伸び水車回り出す
だらだらとした書きぶりに昼寝の首が伸びてゆく感じが表れている。人気のない場所で回り続ける水車に昼の情事を思う。夜の眠りは「寝付く」と言った能動的な行為であるが、昼寝は眠気に誘われると自分ではどうしようもない、受身的な要素をもっている。その心持ちが枕をはみ出て伸びる首に組み敷かれてる女を想わせ、回りだす水車がセックスを匂わせる。
■柴田千晶 ダブルベッド 10句 ≫読む
■西澤みず季 遠花火 10句 ≫ 読む
■榎本 享 緑 雨 10句 ≫読む
■渡辺誠一郎 二輪草 10句 ≫ 読む
■渋川京子 遠きてのひら 10句 ≫読む
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2010-06-06
【週俳5月の俳句を読む】三宅やよい
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