週刊俳句時評 第2回
で、俳句は読まれるようになったのか
豈weekly終刊に寄せて
山口優夢
今週100号を迎え終刊となる豈weeklyについて考えるとき、まず念頭に置いておきたいのは、そのメディアとしての特殊な形態である。これまでの記事を見てみると、決して執筆に携わった人の数は多くない。制限は特にないものの、結果的に見ると影響力のある記事を書いていたのは特定の少数であり、それを不特定多数の読者が見るという構図になっている。
特定少数の人間が自分たちの考えを発信するというのは、従来の紙媒体の同人誌などと形態を同じくしているように見えるが、決定的な違いは、紙媒体の同人誌ではあくまで視線が同人メンバーの内部に向いているのが主であり、外部に対する反応は従でしか有り得なかったのが普通であるのに対して、豈weeklyでは完全に視線が自分たちの外部に向いていたということであろう。豈weeklyはいわば求心力ではなく遠心力で形成された場であり、俳句の作品発表を一切行なわず、近刊の句集や評論等に対する書評、物故俳人の俳句の鑑賞、俳句関連のイベントに対して素早く反応してみせる時評などで成り立っていた。ここには特定の書き手が集まることになったが、彼らは一人一人が俳壇に向き合ってレスポンスを返していたのであり、書き手同士が内部で結束して何かを行なうという集団にはなっていないし、そういうものを企図して創られた媒体ではなかったのである。
一人一人が完全に外部に向けて発信する媒体であるというこの特質は、インターネットという場に非常によくフィットするものであった。紙媒体の同人誌で同じことをしようとした場合、基本的に商業ベースではない同人誌を見るのはごく限られた人にならざるを得ないため、どんなに自分たちの「外部」に発信しようと思っても、少なくとも一定程度以上の制約を受け入れなければならない。そもそも同人誌の場合は、基本的に内向きの媒体なのだから、できあがった同人誌を同人のメンバーに渡し、または贈呈すべき特定の人物に送ることができれば、それで事足りたのである。すなわち、言い古されたことではあるが、インターネットの登場以前、同人や結社と言った派閥を越えて発信する場は、基本的には総合誌や新聞の時評欄などに限られていた。しかしインターネットであれば、そのコンテンツを実際にどれだけの人が見るかは別の問題としても、少なくとも理論的には、不特定多数の人がアクセスすることを可能ならしめたのだ。
豈weeklyが、インターネットという新しい道具を使って何かできないかな、という単純な発想から生まれたものではなくて、「俳句など誰も読んではいない」(「創刊のことば」高山れおな)という問題意識を前提として、それを解決するためにネットの利点を活用する、という媒体として登場したことには大きな意味があった。そこでは、インターネットが目的ではなくて手段として活用されている。これは当たり前と言えば当たり前のことかもしれないが、案外、我々は新しい道具には振り回されがちなところがあり、本来手段とすべきものを目的と捉えがちではないだろうか。ミクシィとか、ツイッターとか。
(また、余談だが、類似した形態を持つ「週刊俳句」は、豈weeklyとははっきりと異なる志向を持っており、豈weeklyが「特定少数から不特定多数へ」であるとすれば、週刊俳句は「不特定多数から不特定多数へ」といった理念を持った媒体と言える。)
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不特定多数に発信しているというこの媒体の特殊性に対して最も自覚的だったのは、やはり創刊メンバーの一人である高山れおな自身ではなかっただろうか。彼の近刊書籍に対する言及の迅速さと豊富さは正に群を抜いて圧巻であった。彼はこの媒体を、特定の自分に近しい団体をアピールしたり、特定の団体を批判したりするために使ったわけではなかった。金子兜太のようなビッグネームが句集を出せばそれに対する鑑賞を行なうし、小川軽舟の評論や坪内稔典、今井聖らのエッセイなど話題の書に対してもたいてい言及がある。記憶に新しいところでは、現代詩手帖で髙柳克弘選の「ゼロ年代の100句」を受けて、それをベースにした高山れおな版100句が発表された際の迅速さには驚くべきものがあった。また、広く俳壇で話題になっているものばかりではなく、勝原士郎の評論など僕のような不勉強な読者が全く知らなかった俳書も紹介されており、大変参考になったことを覚えている。
これらの記事は、手際良く本を紹介するのみではなく、そこに表出された思想を批判的に捉えることで、価値観を相対化し得ている。多様な俳句観の交差する俳壇に、自分の俳句観一本で切り込んでゆき、様々な俳句関連書籍に「評価」を加えたということこそ、高山の豈weeklyでの仕事の真骨頂であった。高山の記事は、それぞれの俳書を紹介するものであると同時に、それらを集成してみると、むしろ高山れおなという俳人自身の紹介という色を強める。優れた評論家であればそれはもちろん当たり前のことなのだが、このような筋の通った評価軸の生成こそが、豈weeklyの創刊のことばに対応し、「俳句を読む」ことであったのは言うまでもないことだろう。
柴田千晶句集『赤き毛皮』評や、高遠朱音句集『ナイトフライヤー』に対する評などは特に個人的には強い印象が残っている。両方とも、どちらかと言えば生身の感じがする句集であり、技術的観点から見れば「うまい」とは言い難いものの、高山は、彼女らが内に秘めたパワーを引き出すような鑑賞を行なっている。基本的にはプラスに見ているが、根本的な俳句観の部分で批判的になっているところもあり、褒める一方の書評よりもむしろ一層紹介されている句集に興味が湧いてくるのだ。そこでは、まさに「俳句を読む」という行為が緻密に独自性をもって行なわれているという印象が濃い。
また、高山の記事は、豈weeklyの黎明期に書かれた『女性俳句の鑑賞第6巻』に対する書評のころから一貫して、誰かに皮肉や批判をぶつけるのに躊躇しない。仁平勝、復本一郎、かわうそ亭や塩見恵介、最近ではわたなべじゅんこが論難の対象となっている(もちろん、程度の差は大いにあり、いっしょくたにはできないが)。かく言う私も匿名批評の是非をめぐって高山氏から徹底的な批判を受けたことがあり、あれは批評の倫理というものについて非常に考えさせられた一件であった。個人的には大変有益だった。
このような批判記事は、無責任な観衆から見れば「そうだそうだもっとやれ」とあおりたくなるような面白いものであり、ジャーナリスティックな点では成功していると思う反面、批判の上手さは高山の本領ではなく、皮相的な一面であろうと思う僕などから見れば、このような批判・皮肉の大盤振る舞いは、むしろそういう皮相の一面が彼の本質だと見誤らせるような無用の誤解を生みはしないかと思わないでもない。高山自身は、そういった誤解をするような手合いは相手にしない肚なのかもしれないが。
たとえば一番最近の、わたなべじゅんこを論難した記事は、「みずからもまた読むことに怠惰であったのではないかという反省が今はある」(創刊のことば)として始めた豈weeklyにおける記事の一つとして、本当に必要なものだったのかどうか。
もちろん、厳密な言葉の運用と双方の正確な理解をベースにして議論を戦わせることによって、多様な価値観を現出せしめる批評空間を形成しようとしている高山にとってみれば、わたなべじゅんこの感情的な文章に対して徹底的に精緻な分析を加えて攻撃してみせることは、「備忘録」的な感情の垂れ流しブログからは彼の目指す批評空間は生まれないということを多くの読者に向かってアピールする意味があったのだろう。しかしあそこまで完膚無きまでに相手を叩いてしまうと、単に売られた喧嘩を買った、という側面の方が強く見えてしまう。そこに、豈weeklyが本来目指していたはずの、俳句を「読む」ことの有益な示唆は、乏しい。あるいは、終刊間際にまでなってそのような記事が書かれてしまうということ自体が、高山の理想が現俳壇においては未だはるか彼方にあることをむざむざと見せてしまっている、というその事態をこそ、嘆くべきだろうか。
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豈weeklyの書き手として忘れてはならない人は他に何人もいるが、その名を一人挙げるとすれば、やはり冨田拓也は外せない。初期から書き継がれている「俳句九十九折」は、当初はAとBの対話形式で書かれ、その黎明期には、年代別に20世紀後半から21世紀現在までの俳句史を概観するものだったが、やがて「俳人ファイル」と称して、現在ではほぼ忘れられた、あるいは忘れられつつある俳人たちをピックアップし、その俳句を鑑賞し続けた。豊富な知識量に裏打ちされた綿密な読みが施されており、AとBの対話も、彼の思考をリアルタイムで追い続けているようなよくできた装置として働いていたと思う。中でも下村槐太や大原テルカズ、金子明彦など、一句か二句くらいしか知らなかった作者について、その来歴や代表句を知ることができたということ自体が大変貴重だった。
冨田とはきちんと話したことが今までほとんどないので、これは僕の推測でしかないが、豈weeklyの始まるはるか以前、澤の7周年記念号で俳論を書いている冨田が、この「俳人ファイル」に名を挙げている俳人たちの句を一句ずつ引いて、埋もれた俳人の発掘の必要性を説いていたところを見ると、どうやら彼にとっても、豈weeklyという場は自分の理想を体現できる恰好の媒体であったのではないか。
「俳人ファイル」のあとに始まった「七曜俳句クロニクル」は、それまでの対話形式をやめ、日記形式をとっている。そのため、これまで俳句というものに触れる際、まるで手袋で恐る恐る触っていたような仮構性が少し薄れ、素の冨田拓也(っぽいもの)が染みだしてきているようだ。基本的には近刊の句集や評論の感想、俳句関連イベントへの雑感を綴ったものであったが、この連載で個人的に一番の見どころと思っていたのは、「なんとなく××という言葉が思い浮かんできた」という書きだしに続いて、その××という言葉が入った古今東西の句が並べられている記事だ。××は、「オートバイ」だったり「抽斗」だったり「道」だったり「山彦」(!)だったりする。
ある言葉の入った句を並べるという趣向は、ウラハイでもたびたび行なわれているが、こちらはもっと普通にその季節の季語で集めることが多い(12月に「クリスマス」の入った俳句を並べる、など)。先の対話形式や日記形式と言い、この「××が思い浮かんできた」という文言と言い、冨田の記事は、その仕掛け方にも独自性があり、単に豊富な資料をそのまま見せるのではなく、興味深い再構成の仕方をしている辺り、大変面白いと思った。
そして、冨田の基本的な姿勢として、俳句、表現一般に対する恐れが、謙虚さという次元を越えて表出されているのも、興味深いところである。それは現代の俳句史をまとめたり、俳人ファイルを書いたり、七曜俳句クロニクルを綴ったり、どの記事にも共通しているものだ。埋もれた歴史を畏怖し、おののきながら巨大な俳句の集積の前にたたずむちっぽけな自分。そういうあり方そのものが、高山の評論とはまた違う意味で、現在の俳壇に対する強烈な皮肉になっているようだ。
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豈weeklyには他にも、中村安伸によるおそらく世界最長の佐藤文香句集「海藻標本」鑑賞、筑紫磐井の評論詩、複数の評者による相馬遷子の俳句鑑賞、関悦史の近刊句集鑑賞(時々、俳句関連イベントの精緻なレポートに化ける)、外山一機と藤田哲史によるセレクション俳人鑑賞などいくつかの連載記事や単発記事がひしめいていたが、個人的にインパクトがあったのは、やはり高山と冨田の記事だったような気がする。冨田などは、高山や中村といった創刊メンバーをとっくに追い抜いて記事投稿の最高記録を樹立しているのだ。数だけ見ても、これは並大抵のことではない。
高山が創刊号にて掲げた「俳句など誰も読んではいない」というテーゼは、もちろん逆説的に「俳句を読まなければならない」という主張であり、ここで言う「俳句を読む」とは、それぞれが自前の評価軸を生成し、自分自身の言葉で俳句や俳句にまつわる言説を評価してゆくということであろう。では、豈weekly100号を通して、俳句は「読まれる」ようになったのか。
少なくとも彼らは静かだった水面に石を放り投げた。それだけは確かなことだ。しかし、俳句を「読む」ということに対して、一体どれだけの人が意識的になったのか、それは正直まだ分からない。豈weeklyに記事を書いていた者でさえ、それを意識し続けていたのかどうかは分からない。かく言う自分自身も。
まだ終わってはいない。一つの石から生じた波紋を広げるか、静まらせるか。それは我々全員の手にゆだねられた。俳句に手を染める者で、このことを考える責任から逃れられるものはいない。
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2010-07-18
週刊俳句時評 第2回 で、俳句は読まれるようになったのか
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