2010-07-25

週刊俳句時評 第3回 桜鯛と蛇

週刊俳句時評 第3回
桜鯛と蛇

神野紗希


1.

最近出た句集の中では、神戸周子氏の第三句集『展翅』(ふらんす堂)に目を惹かれた。中でも、動物を詠んだ句が印象的だ。

桜鯛歯の見えたるはさみしいぞ
闘鶏のすぐに果てたる日照雨かな

小突かれてはんざき一年分動く
山椒魚見る雨傘の黒ばかり
兜虫分解されてしまひけり
まんばうになりたき人と虹を見る
鮟鱇のどの部分やら買ひにけり
おぼろ夜の象の鎖を思ひゐる
のれそれにかすかな眼ある暮春
白猫のこんと鳴きそな春満月

一句目、桜鯛の歯という一風変わったところに、さみしさを見出した句。歯が見える状態になっているということは、口がぴったりと閉じられているのではなく、少し開いているのだ。その、ちょっと呆けたような表情が、さみしさを誘う。また、歯は、食の象徴でもある。歯が見えていることがさみしい、という感覚の向こうには、食べなければならない動物のさみしさが透けてみえる。人間は桜鯛を食べるが、桜鯛もまた、何かを食べて生きている。そのループがさみしい、という風にも捉えることができる。

三句目、はんざきの慌てている様子が、「一年分動く」というユニークな断定で、滑稽に描かれている。確かに、はんざきは、普段、本当に動かないイメージがある。慌てている様子を「一年分」と断じても、間違いではないかもしれないと、納得する。「小突かれて」という措辞も、下っ端で肝の小さい感じをよく表していて、ついつい、このはんざきのことを、人間のように感情を持ったものとして、愛情をもって見つめてしまう。四句目は、山椒魚という動物の重量感・存在感が、傘を打つ雨の重さや、黒という重たい色によって、体感できるようになっているのが面白い。

五句目、子どもの仕業を見ていて書いたのだろうか。生きている兜虫を分解するのは、暴れてなかなか大変だろうし、ちょっと残酷にすぎるので、死んでしまった兜虫を扱ったと考えたい。「分解」という、物質に対して用いられるような硬い表現によって、あたかもひとつの機械の仕組みを知りたいと思って部品を分解するように、兜虫をばらしていく、メカニックな興味の様子が描かれている。さっきまで生きていた兜虫が、すでに物質になってしまった。そんな命の不思議も、根底には流れている。

神戸氏の動物の句は、詠みぶりとしては少しドライだ。そこがいい。動物たちに分かりやすく心寄せるよりも、「分解されて」「どの部分やら」といった、対象となる動物の心の中には決して入らない突き放した表現をとるほうが、その生き物の命に、より肉薄できているような気がする。私たちは、命の仕組みというものは分からず、彼らの心持ちも知らない。突き放した描写は、そうした、知らないことに対する謙虚さのようなものを感じさせてくれるからだ。

2.

また、彼女には〈冬木立死のくつきりと見ゆる日よ〉〈遺書かくによろしき朴の落葉かな〉というように、死というモチーフを表におしだした句もある。けれど私は、そうした句よりも、次のような句のほうが好きだ。

いつも撫でて通る箒草ありぬ
梟やこのごろ時計狂はざる
パンを焼く十一月の明るさに

「死」「遺書」と書いてしまうと、途端にそれは、概念として捉えられるものになってしまう。「死のくつきりと」と言った瞬間、死を恐れる本当の心の手触りからは、ぐっと遠ざかってしまうような、がっかりとした心持ちになるのだ。それよりも、いつもなぜか撫でて通ってしまう箒草の存在(破調がその「なぜか」の不思議さをリズムで体感させてくれる)や、正確に時を刻む時計とそれを見つめる超越的な視点としての梟、パンを焼く厨に差し込んで来る十一月の静かな日差しのほうが、得体の知れない運命のようなものを感じさせもして、むしろ、死と言わずに死というモチーフに近づいているようにも思える。

遠い木をいつも見てゐて兎飼ふ

飼っている兎の世話をしてやるとき、いつも見やる、遠くの木がある。普通であれば、世話をやいている兎の命のほうに大きな興味の比重があるはずだが、この句を読んでいると、むしろ、兎よりも遠くの木のほうに、より親しみを感じているような気がするから不思議だ。呼ばれている、とでもいうのだろうか。抱いている兎のあたたかさよりも、遠くの木の幹のつめたさのほうに、心の比重が置かれているような感覚は、どうにもさみしい。

「遠き」ではなく「遠い」と、文語ではなく口語を採用しているところからは、いつまでも続いていくような、この現実の日常の倦怠感を読みとることができる。「遠い木」は、この句の中で、あくまで物質としての「遠い木」だが、やはりその裏にはほのかに匂う象徴性がある。「遠い木」を見ながら、主体は、生き死にということに思いを寄せているような気がするのだ。兎がいるから、かもしれない。いつか来る死を、少し遠くに、しかし射程圏内に見つめているような、そんなまなざしを、木を見やるまなざしには感じる。兎の命、私の命、木の命。それを静かに並べて、句の中で関係性を結ぶことによって、生きていくことの運命性のようなものが、おのずから感じられてくるようになっている。

3.

動物を詠んだ句、というと、触れておきたいことがもうひとつ。

蛇が蛇を愛してたまに死骸出づ  谷雄介

「俳句界」6月号の「俳句未来人」のコーナーに発表された、「蛇」という題の作品の中の一句。この句について、「俳句」2010年8月号(角川学芸出版)の俳句月評で、白濱一羊氏が、次のように述べている。

〈蛇を愛して〉とくるとぎょっとするが、〈蛇が蛇を〉であるから当然といえば当然。〈愛し〉た結果がなぜ〈死骸出づ〉となるのか。〈愛して〉で切れるとしたら〈たまに死骸出づ〉が活きてこない。

要するに、難解で句意がとれないということを批判しているのである。どういった句を難解と呼ぶのかは人によってボーダーが違うのだが、この句の場合、シュールな世界を味わう手掛かりは十分、句の中に残されていると、私は思う。

たとえば、「蛇が蛇を愛して」「たまに」「出づ」などは、愛や死を扱うには雑な物言いであること。そのことから、愛や死に対して、作者がニヒリスティックな意識を持っていることが分かる。要するに、蛇と蛇が愛し合って(その激しさゆえに)死んでしまうものもいる、そのことを「たまに死骸出づ」という、品なく粗雑なあっけらかんとした物言いで表現したところに、愛や死に対する冷静な目があるのが面白い句だ。神戸氏の句集で、兜虫に対して「分解」という言葉を使った効果と同じように、「たまに死骸出づ」というあらざるべき表現が、むしろ死の尊さ、死の孕む無のリアルを感じさせてくれる効果を持っている。

加えて私は、この句を読んで、たまたま蛇の死骸に行き合わせた作者を想像した。夏の暑い日、そこに落ちている蛇の死骸。なぜこの蛇は死んだのだろう。どのようなことがあったとしても、それらはすべて終わったことであり、目の前には、ただ死骸があるだけだ。しかし、この死骸が、蛇の愛の結果だったとしたら…そんなことを考えている間に、だんだん、蛇の死骸の存在感が強くなっていく。

私は、この句を、そんな風に面白く体験した。そのことを記しておきたいと思った。

おまけ

もうひとつ気になったのは、次のこと。

この谷氏の句の批評で、白濱氏は、船団の会HPの「俳句時評」でのわたなべじゅんこ氏の発言の引用をし、次のように締めくくる。

わたなべ氏の意見も分からないではないのだが、俳壇に鑑賞を読者に丸投げしたかのような無造作な取り合わせの句をありがたがる風潮がありはしないかという危惧が私にはある。全てを言ってしまっている句、鑑賞の足がかりを与えてくれない句、どちらも感動からは遠い。

面白いのは、わたなべ氏も白濱氏も、「俳壇」を仮想的に仕上げているところだ。わたなべ氏から見れば、白濱氏は批判すべき「俳壇」の一員。白濱氏から見れば、わたなべ氏は批判すべき「俳壇」の一員。このように「俳壇」という言葉が、マジョリティの象徴として使われるとき、たいがい、発言者はみずからをマイノリティでヒロイックな位置におこうとする。そんな、あるかなきかの仮想敵を設定して、どちらがより優位に立つかという不毛なやりとりよりも、一句の読みについて素直な意見をかわしたほうが、「俳壇」のためになると思うけれど。

さて、ここでいう「鑑賞を読者に丸投げしたかのような無造作な取り合わせの句」とは、一体どの句を指しているのだろうか。谷氏の蛇の句は、蛇が愛し合った結果、死骸も出るだろうという、蛇の一物仕立ての句である(「死骸」という言葉はふつう人間ではなく動物や虫に対してつかわれることが多いので、蛇と対応しているとみるのが自然だろう)。いや、「鑑賞を読者に丸投げしたかのような」の部分は、谷氏に向けられた批判ともとれるか。とするならば、そこから「無造作な取り合わせの句」にまで批判を拡大したのが、話題がちょっとスライドしているところだ。

直前にe船団の時評を取り上げていることから、船団の句が念頭にあるのだろうか。しかし、断言はできない。「鑑賞を読者に丸投げしたかのような無造作な取り合わせの句」が一体どういうものを指すのか、具体例や具体的な読みのプロセスを挙げないままに、「分からない」とだけ言うのであれば、それは批評の対話を生む評言たりえない、結局は愚痴のように終わってしまう。

白濱氏が何を言いたいのか、私はもっと知りたいし、谷氏の蛇の句を理解できる人とできない人とがいる(「難解」と感じるボーダーの個人差がある)ということについて、もっと考えたい。そのためには、やっぱり、具体例を挙げて読みを提示してもらわらないと、その批判の真意を引き継ぎ、語り合うことはできないと思うのだ。

先日発行された「豈」50号の評論にも、同じ印象をもった。管見した限り、特集記事22本のうち、半分の11本は、一句も例句が挙げられないままに論が進んでゆく。残りの11本の中にも、句の解釈の存在しない論がいくつかあった。具体的な読みの示されない論が、説得力を持つことなどあるのだろうか。とかく、批評の場に「読み」が足りないことに驚く。

(了)



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