2010-07-11

成分表38 ロンロン

成分表38 ロンロン            
上田信治


「里」 2009年2月号より転載


ある知り合いが「吉祥寺ロンロン」という言葉が、ものすごく嫌だ、と言っていた。

こういう規格外のことを言う人は、大事にしなければいけない。「ルミネ」はどうかと訊くと(どちらもJRの駅ビルの名前だ)、それは大丈夫だと言う。好き嫌いというものは、本人にとって最も確かでありつつ、まったく理屈ではない。

そういえば、誰だったか作家が、一般向けのエッセイで、嫌いな言葉がある人は文章を書く資格がある、というようなことを書いていた。

何か「嫌い」なものがある人は、その反対方向に進んでいけば、その人の、まだ自覚していない「良きもの」に出会うチャンスがある、ということかと、これは勝手にそう思った。「良い」よりも、「嫌い」のほうが、自分でも理屈が分からないだけに、お題目になりにくく、見失いにくい、そんな気もする。

「嫌い」の反対方向へ進むということは、否定すべき「ロンロン」を後ろ頭に感じつつ、何もない空白の方角に向かうことだ。「近ごろいやな言葉」とか言って、流行の言い回しを批判するようなエッセイは、かなりくだらない。否定は、それを足掛かりに、あらたな空白へ向かうのでなければ、あまり生産的ではない。

ところで、空白を志向してそれ以上を求めない態度は、俳句にとって、本質とも意匠ともつかないほどに親しいものだ。そして、その種のナンセンスを志向する表現の根本には、意味のあることや役に立つことが嫌、という子供じみた否定がある。

言いたいことのあり過ぎた時代に対する、否定と反動としての「言いたいことは何もない」という身振り。それは自分たちの時代全般を支配したナンセンスであり、しかも、すこし俳句に似合いすぎていた。

それが今、すでに紋切り型に見えるとしたら、それは、否定から空白へ向かうことの意味が、すりきれてしまったということだろう。

「吉祥寺ロンロン」も、なくなるらしい。

「言いたいことは何もない」の否定は、「言いたいこと」への回帰として現れるのだろうか。それは、分からない。

空白の時代に生まれ育ったという自覚のもとに、言葉遊びを続けさせてもらえば、「言いたいこと」と「何もない」を両共に否定して、その果てにあるものを見てみたいと思う。


 ロンロンと時計鳴るなり夏館  松本たかし


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