俳枕9
貴船と波多野爽波
広渡敬雄
「青垣11号」より転載。
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貴船は京都左京区の北西部にあり、鞍馬山と隣接する貴船山の麓の地域。和泉式部「物思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づるたまかとぞ見る」と詠われた貴船川は鞍馬川と合流して賀茂川となり、平安京の水源地であったため、貴船神社は水を司る神として崇められた。大正期からの納涼川床も有名で、秋には可憐なキフネギクもよく知られている。
夏の蝶飛んで高しや貴船村 高濱虚子
杉・もみぢなだれの底に貴船見ゆ 能村登四郎
新緑や人の少なき貴船村 波多野爽波
この川の鮎と出されし蒼さかな 中村房枝
波多野爽波は、大正十二年東京の生まれ、学習院高等科時代に三島由紀夫と句会「木犀会」を起こす。
十七歳で虚子に対面、翌年ホトトギス入門。京都大学在学中に学徒出陣、復員後「ホトトギス」の若手関西グループを集め「春菜会」を発足させ、二十六歳でホトトギス最年少同人。
毎夏、虚子の山中湖稽古会に参加、三十歳で虚子から「青といふ雑誌チューリップヒヤシンス」の祝句を得て「青」創刊主宰。大峯あきら、宇佐美魚目、友岡子郷他、若手の田中裕明、岸本尚毅、島田牙城を育てた。
虚子を唯一の師と仰ぎ、虚子の死の直前に「ホトトギス」を離脱した。
「俳句スポーツ説―若者のために」〈俳句年鑑昭和57.12〉で「俳句では、身体で受止め、瞬時にして反射的に、有季十七音という言葉の塊りとして一時に出てくるような体質づくりを目指して、恰もスポーツの練習を反復するように写生の修業、「芸」としての修業が絶対に不可欠」と多作多捨、多読多憶を推奨した。これは、俳壇で物議をかもした。
「本当の贅沢を知っている最後の世代の人」として良き理解者である飯島晴子は論ずる。「爽波の写生は、自己以外の外界と日常的な接触以上に接触することで、予想もしなかったものに出会う。写生の成功は「ものが見えたのと言葉が同時」であり、写生には、体力、気力が要る」(「波多野爽波論―言葉と写生」)
ちぎり捨てあり山吹の花と葉と
掛稲のすぐそこにある湯呑かな
金魚玉とり落としなば鋪道の花
鳥の巣に鳥が入つてゆくところ
骰子の一の目赤し春の山
桐の木のむかう桐の木昼寝村
裂かれたる穴子のみんな目が澄んで
岸本尚毅は述べる。爽波俳句は、俳句形式に忠実であるが故に〈無名の肯定〉という思想を最も濃厚に体現している。我々は無名の自然に取巻かれ、我々自身も無名の生命である。
句集には「鋪道の花」「湯呑」「骰子」「一筆」、また島田牙城の邑書林編の波多野爽波全句集三巻(含む一筆以後)がある。晩年は健康面で体調を崩し平成三年逝去。享年六十八歳。
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