文語つたつて、そりや貴方……
島田牙城
(初出「里」2010年4月号所収「吾亦庵記録」をweb用に加筆訂正したものです)
青字は引用文、引用作品です。
青字は引用文、引用作品です。
前号で仮名遣ひについてしやべつたので、
その勢ひで文語・口語についても話さう。
俳人には文語派が多いと言はれてゐて、たとへばそれは、
俳人の実態は、旧かなを用いる人が大多数だと思います。それは、文語を用いる俳人が大多数であることを反映していると思います。
といふ岸本尚毅の言葉(「俳句界」2月号「文語との相性を考えて」)からも、
たぶん確かなことなのであらう。
しかし、
僕にはこの部分にこそ大きな落し穴があるやうに思へてならないのである。
僕は今回のこの一文で僕なりの「文語・口語」問題への結論を出すつもりだ。
いや、
結論はすでに決まつてゐるのであつて、先に示してしまふのもよいだらう。
現代の俳句に多用される「文語」と言ひ倣はされてゐる表現は、
「俳句実作上の慣用表現」と言ひ替へるべきである。
「つぐみ」3月号(津波古江津発行)に7句寄稿するのに、
僕はわざと文語表現句を拵へることとした。
物投げる空ありがたき花衣
は「ありがたき」が文語表現なのだけれども、
この句はすんなり何の苦もなく出来た。
しかし、形容詞を文語活用で使つてゐる句なんて五万とあるのであつて、
明易き欅にしるす生死かな 加藤楸邨
の季語「明易き」のなかですら、僕たちは用例を知つてゐる。
夏の季語なら「夏深し」「涼し」などもある。
五月雨を集めて早し最上川 松尾芭蕉
酌婦来る灯取虫より汚きが 高濱虚子
天と地の間に丸し帚草 波多野爽波
薫風や見目麗しき頭蓋骨 小豆澤裕子
夏の句ばかりを出してみた。
江戸期から近代、戦後、現代と、
形容詞の文語活用を利用した句には事欠かない。
僕たちはかういふ句群を読みながら、
かういふ俳句の歴史の流れの先端にゐる。使ひ方は自然と身につく。
これは文語表現を学ばうとして身に付けるまでもなく、
俳句の慣用表現として
俳句を始めたばかりの人にも馴染みやすい道具なのである。
その上、インターネットで「ありがたき」を検索に掛けてみると
「ありがたき本」「ありがたき幸せ」「ありがたき出会い」などなど、
俳句とは何の関係もない人たちが幾らでも使つてゐる。
現代においても慣用表現として多用されてゐるのだ。
形容詞の文語活用程度で、「我文語派なり」なんぞと粋がつてはならぬといふことは、このことからも知れる。
続いて、こんな句を作つてみた。
尾のごとき花盗人の花追ひつ
「ごとき」は、「ごとし」といふ助動詞そのものが文語だといふ者もゐるだらうけれど、
これも現代語にも頻出する慣用語であらう。
今は下五「追ひつ」に注目してもらひたい。
正直言ふと、この「つ」は作つた僕にも難しい。
完了の助動詞「つ」と取って「花を追つてしまつた」と訳すのが適当だとは思ふけれど、
接続助詞「つ」と取ると、その下が略されてゐて「花を追つたりなどして……」とぼやかしてゐる語法とも読めなくはない。
この「つ」の用法は俳句でどの程度使はれてゐるのかと思つて
手許の歳時記の「夏」を100ページほど繰つてみたが、出会へなかった。
意味のゆれる曖昧な表現を忌避されてゐるものだらうかと
『松瀬靑々全句集』下巻(邑書林)をぱらぱらやると、しかし、
雪おこし北はくらうに日のさしつ 松瀬青々
連翹を桃に与へてさし添へつ
と、あつさり見つけることが出来る。また、青々は流石で、
「さしつ」は接続助詞、「添へつ」は完了の助動詞と、
きつちり使ひ分けされてゐる。
虚子にもあつた。
蚊帳越しに薬煮る母をかなしみつ 高濱虚子
住まばやと思ふ廃寺に月を見つ
虚子の用法も前句が助動詞、後句が接続助詞とはつきりしてゐる。
ただ、「つ」は句会などで時々見かけるのではなからうか。そんな印象がある。
煩雑なことではあるけれど、「俳句年鑑」2010年版の
「2009年諸家自選五句」3410句の下五をざつと確認してみる。
しかし見出だすことはできなかつた
(今回は結句の「つ」のみ調査、句の中ほどに「つ」を用いてゐる句があるかは未確認)。
明治大正期にはいくらでも見つけることのできる「つ」が
現在殆ど使はれてゐないといふのは、
どういふことを意味してゐるのだらうかと考へてみると、
たぶん結論はあつさりしてゐて、
「使ひなれない表現は使へない」といふ程度のことであらう。
そしてこんな句も作つてみた。
乗りてしか飛花を掠むる雀の背
この句の場合も「掠める」ではなく「掠むる」だから文語表現なのだといふあたりはどうでもいいのであつて、
上五の「乗りてしか」の意味をすんなり言へてこの句を理解する人が
この一文の読者にさて何人ゐるのだらうか。
この「しか」は「~したいものだなあ」といふ願望の終助詞である。
しかも平安時代になると「しが」と濁るやうになるらしく、
万葉集などの奈良期以前にしかほぼ用例はない。
だから、当時の日常語で俳句を作つてゐたであらう松尾芭蕉にも、
ざつと調べたところ用例はないやうだ。
や・かな・けりなどの切字を文語に数へる人もゐるやうだけれど、
「かな」など手許の辞書には「和歌・俳句と散文の会話文に多く用いられた」
とあるほどに、特殊且つ会話調表現だつたことが知れる。
や・かな・けりも、現代の俳句にとつて重要な慣用表現なのであつて、
文語だとするには違和感がある。
口語表現を多用する人も、切字を大いに使へばよい。
顏おろそかやハンカチを使うとき 神野紗希
の「や」は決して「文語」などではないだらう。
俳人が使ふ文語つぽい表現は、
俳句を作る上で使ひ回されてきた慣用表現の盥回しに過ぎない。
僕たちはその慣用表現を研ぎ澄ます努力をすればいいだけのことである。
いや、無理に努力しなくとも、俳句の慣用表現は身に付いてしまふ。
それを好むか嫌ふかは、個々の俳人に委ねられてゐる。
一句に文語的慣用表現がいいのか、
口語的言ひ回しがいいのか、
それはその一句の内容と語呂の問題であつて、
ゆめゆめ「俳句は文語の最後の砦」なんぞと威張つてはならない。
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