2010-07-18

仮名使ひのこと再び 高山れおな氏の時評に触発されて  島田牙城

仮名使ひのこと再び
高山れおな氏の時評に触発されて

島田牙城

(初出「里」2010年3月号所収「吾亦庵記録」を
web用に加筆訂正したものです)
赤字は引用文、引用作品です。

僕なりの仮名遣ひについての思ひは今までそこそこ書いてきてゐるので、
改めて書き足すこともあるまいと思つてゐた。
若い俳人の多くが歴史仮名遣ひを使つてゐることについて、
18歳の越智友亮が「新撰21竟宴」シンポジウムで、
受け入れ難い
(『今、俳人は何を書こうとしているのか』収録)
といふ表現で難じた言葉もにこにこ聴いてゐたし、
「俳句界」2010年2月号を書店で立ち読みした時も、
「激論!! 旧かなvs新かな」といふ特集を眺め、
特段語ることもなささうだと思つて棚に戻したのだつた。

この「俳句界」の特集に高山れおながブログで即座に反応した。
(「俳句空間―豈―Weekly 第77号 2月7日アップ 「愛と仮名しみの暮玲露」)
高山は愼重に、
仮名遣いの選択などというのは、所詮末節の末節であって、
それこそフェティシズムということで済ませてしまってよい。
と書いた上で自説を述べてゐる。
これは、特集の対談で木暮陶句郎が
現代詩は、今の言葉で作るべきでしょうけど、
俳句に関しては十七音、有季定型、旧かなという決め事があったんですよ。
などと、暢気な出鱈目を語るのとは次元の違ふ意識の高さなのだけれど、
僕は高山が展開する論へのイレギュラー感を拭へないでゐる。
今回はそのことを書く。

その前に、文句を垂れておいてその理由を述べないのでは、
木暮からクレームが来かねないので、
木暮の発言の何が「暢気な出鱈目」なのかに少し触れておかう。

現代詩は、今の言葉で作るべきでしょう」はあまりにも僭越。
現代詩を書いてゐる人からは「大きなお世話」と一蹴されるだけの話である。
この「べき」には何の根拠もないし、
そもそもかういふ言葉を平気で吐けるといふところに、
俳句を特別視する邪険なこころが透けて見える。
次なる大きな間違ひは「旧かなという決め事」。そんな決め事など無かつた。
戦前の俳人たちは、普通に普段使つてゐる仮名遣ひ、
それこそ当時の「今の」仮名遣ひで俳句を書いてゐただけである。
だから「どじやう」を「どぜう」と書くやうな慣用仮名遣ひも
だうだうとまかり通つてゐたのである。

ところで、以上のやうなことはもう僕は書き飽いてゐるのであつて、
すでに興味の外である。だからくどくどとは書かない。
問題はといふよりも僕の心を奮はせてくれたのは、
高山の変体仮名への言及であつた。
正直のところこの問題、
今まで深くは立ち入らないやうにしてきたところだつたので、
痛いところを突かれたよといふのが本音である。

勿論、仮名遣ひについて時に応じて書いてきた僕の経験から言つても、
今後高山の文章に触発されて変体仮名について考へようとする俳人が現はれるとはとても思へないのだし、
それこそ高山の文章をフェティシズムの一言で追ひやることも可能なのだけれど、
「それを持ち出したら泥沼だよ」といふ思ひの一端だけは書いておかねばならないと思つてゐる。

高山の説を要約風に抜書きすると、
1,俳句の本質を表記の面から規定するなら、それが漢字仮名まじり文であるところに求められる。
2,歴史的仮名遣いが変体仮名を排除することで成り立っていることで(中略)仮名文字の本質が見えにくくなっている。
3,手書き文字から活字に移行した時に、仮名は漢字の楷書体に準じて硬化し、それと同時に、字母の異なる仮名を取り混ぜることで表記の効果を追及する文化は失われてしまった。
といふことにならう。

「1」については、肯定も否定も僕には自信がない。
割合は相当少なかつたやうだが、
西行だつて和歌に漢字を取り入れてゐたやうだし、
江戸期に入ると大隈言道のやうな仮名書きを旨とする歌人もゐるにはゐたが、
  雲雀あがる春の朝けに見わたせばをちの国原霞棚引   加茂眞淵
  筏おろす清滝河のたぎつ瀬に散てながるゝ山吹のはな  香川景樹
  音にあけて先看る書も天地の始の時と読いづるかな   橘 曙覽
などのやうに、漢字仮名まじり歌を書く人はたくさんゐたのだから、
短歌が、近代短歌に変革された結果として漢字仮名まじり文化した
とする高山説の正当性は疑はねばならない。
漢字仮名まじり文であることを俳句の本質と言つてしまつてよいのかの判断は、保留としておく。

「2」については、僕は否と言ふ。僕流に書き直すならば、
2a,近代の活字文化は変体仮名を排除することで成立した。
   その端緒に歴史仮名遣ひがあり、
   現代に流通してゐる一般的な仮名遣ひも同様の活字文化の中にある。

「3」については全面的に同意できる。

読者に分かり易くしておく。
字母とは、仮名文字の元になつた漢字のことである。例へば、
 ka=字母 可・加・閑・家・香……
活字文化がまだ未発達であつた江戸期までは、印刷物も手書き文字から版木を起こしたので、
文字とは即ち手書きであつた。
そこでは平仮名の「ka」は「か」といふ形ではなく、
可や加や閑や家や香などのさまざまな字母の崩し字(変体仮名)として書かれてゐた。
「ka」は一つではなかつた。
(「変体仮名」で検索を掛けると、いろいろなサイトで確認できる)
それを活字文化を押し進めた明治期以降、一つの音の仮名をさまざまな変体仮名の中から一つに絞つた。
「ka」の場合は「加」の変体仮名が採用され、
可・閑・家・香などの形は捨てられたのである。

即ち、活字文化が成立することによつて、高山のいふ「表記の効果を追及する文化」は潰えたのである。
これはもともと、日本語の一音一音を漢字に当て嵌めようとして成つた万葉仮名の時代に、
特に統一を図ることもなくいろいろな漢字を当てたことによつて生じた事態である。
それが平安期以降の仮名文字文化を豊かなものにしたのだが、
その豊かさは活字文化とともに消えた。

蛇足だが、この豊かさは「字母の異なる仮名」だけではなく、
「同じ字母でも崩し方が異なる仮名」(例えば乃→の)などでも、僕たちは味はふことが出來る。

さて、高山はこの文を三村純也の伝統観への批判として書いてゐるやうだ。
高山が特に問題とする三村の文を紹介しておく。(「俳句界」2月號 「日本語のかそけさ ひそけさ」)

俳句の伝統を守るという意味からも、私は歴史的仮名遣い(旧かな)を支持する。「思う」「思ふ」、「思い」「思ひ」、比べてみて、歴史的仮名遣いのほうが、かそけきやさしさを感じてしまうのは、私の独善だろうか。日本語というのは、もっとやさしいものだったはずのように思う。ひそやかな気配というものを、深く湛えていたものではなかったか。そういう息吹を、現代仮名遣いでは、表現し切れないのではないか。ふと、そんなことも思う。
高山は三村に対して、
「伝統」つて何だい、俳句の伝統と歴史仮名遣ひはどのやうに関はるんだい、
といふ問ひからこの一文を草したのであらう。
歴史仮名遣ひとは仮名遣ひの伝統(変体仮名の豊かさ)を潰えさせたところに成り立つてゐる仮名遣ひなんだよ、
と。

そして、高山はこの一文で仮名遣ひの問題と俳句の伝統の問題を峻別して見せてくれた。
これは、「決め事」とか「伝統」とかに縋るしかない歴史仮名遣ひ使用者の木暮や三村にとつてはかなりの打撃のはずである。

しかし、高山は「だから現代仮名遣ひを使ひませう」などと言ふ馬鹿げた提案はしない。
その選択はフェティッシュなものさと嘯くまでである。
だから歴史仮名遣ひを使ふものも、フェティッシュに選んでゐるだけさと嘯き返してもいいのだが、
いや、今の時代に歴史仮名遣ひを選拓するといふのは、すごく積極的なことのはずである。

僕は「正仮名使ひ」といふ言ひ方を最近し始めてゐるけれども、
世間一般は「旧かな」と呼ぶ。
「いつまでも古いものに縋り付いてゐるなよ」といふ冷ややかな目線を向ける。
その時にしつかりとした議論が出来ないで「決め事」とか「伝統」とか
はては「かそけさ」などといふ気分でしか応答しえないやうな体たらくでよいのか。

僕が高山の批評の変体仮名と歴史仮名遣ひの断裂を言ふ部分を読んで「イレギュラー感」を持つたのは、
変体仮名を持ち出したら自然と万葉仮名にまで行つてしまふではないか、と感じたからだ。
万葉の時代、母音は現代語のやうな五つではなく、ある説によると八つもあつた。
だからたとへば「き」にしても「企」は甲類音「幾」は乙類音で別々の母音だつたものを、
歴史仮名遣ひでは甲類を捨てて「幾」の変体仮名から「き」を採用してゐる。
これは不当ではないか、といふ話にまで発展しかねないと危惧したからだつた。

高山には是非、変体仮名の問題は歴史仮名遣ひとのリンクではなく、
明治期以降、現代仮名遣ひを含めた活字文化とのリンクをお願ひしておきたい。

僕は取り敢へず、
変体仮名(形態)と歴史仮名遣ひ(用法)を切り離し、
即ち仮名遣ひの選拓の問題は活字と変体仮名の問題とは別であるという認識のもとに、
活字文化以降の仮名形態で、
銀杏は「いてふ」なのか「いちやう」なのか「いちょう」なのかを考へ続けたい。

そして考へれば考へるほど、新旧の問題ではなく、正・俗・略の問題であると思へるやうになつてきた。
そこに定家仮名遣ひの「なんとかならんかいな」程度の不徹底さと、
契沖仮名遣ひの「なんとかせねば」といふ理念の深さの違ひも見えてくるのである。

だからこそ、芭蕉や蕪村が「かほり」と書いてゐるからといつても、
俗仮名遣ひたる「かほり」を僕の中で認めることは出來ないし、
略仮名遣ひたる「かおり」であつさり「w」といふ子音の効果を捨て去ることもしたくなく、
契沖以降現代まで連綿と続く研究成果が明らかにした正仮名遣ひたる「かをり」をこそ使用したいのである。

国語学のはうでは通説になつてゐるやうだけれど、
平安時代、すでに「wo」と「o」の区別は無くなつてゐたといふのは、本当なのだらうか。
「かをり」の「w」は結構怪しくつて、
たしかに「かほり」と書きたくなつてくるやうな「h」音の侵略も感じられるけれど、
「かおり」のやうに「ka」から子音を飛ばして「o」をしつかりと発音するには、相当な口の筋肉が必要だらう。
また助詞「を」に到つては、
今でも多くの人が無意識裡に「o」ではなく「wo」と発音してゐるのではないかと感じてゐる。

なほ、変体仮名の一部は、明治期から少なくとも大正期までは活字文化の中でも使用されてゐたやうだ。
  山越えに長夜来游ぶ女かな
は、『松瀬青々全句集』下巻(邑書林)に載る、大正三年「朝日新聞」初出の句だが、
「え」は「江」を字母とする変体仮名であつたので、全句集でも再現させてある。
 
また、近所の佐久ホテル玄関前にある荻原井泉水自筆句碑は、
  和羅耶布流
  遊幾通毛留
と彫られてゐる。万葉仮名である。漢字仮名まじりにすると、
  藁屋古る
  雪積もる
となるもので、昭和五年、当地での揮毫、ホテルに書が残されてゐる。

そして、変体仮名は書の方では現代でもいくらでも使はれてゐるのであつて、
僕が持つてゐる、
  牡丹の奥に怒濤怒濤の奥に牡丹  楸 邨
といふ書の二つの「の」は、一つ目が「能」の、二つ目が「乃」の変体である。
活字の変体仮名は、大正期にはどうも廃れてしまつたやうだけれど、
書で生きてゐる。
どうぞ現代仮名遣ひ使用の俳人のみなさんも、
筆を執られる時には是非、変体仮名を試してみられると楽しいだらう。
(僕は普段「歴史仮名遣ひ」と「的」を外して呼んでゐる)

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