2010-08-01

週刊俳句時評 第4回 仲介者をさがせ 山口優夢

週刊俳句時評 第4回
仲介者をさがせ

山口優夢


角川『俳句』8月号の「現代俳句の挑戦」(髙柳克弘)は、第20回「主題に奉仕する季語」というタイトルで、同誌6月号に掲載された座談会「若手俳人の季語意識」の内容を髙柳氏流に噛み砕いた内容となっている。

座談会で出た関悦史の「季語があると便利」という発言を「季語の偏重への疑問」が「もっともラディカルなかたちで出ている」例として挙げ、若手俳人の発言と句作に季題主義からの脱却を見ている。そのような態度は、季語だけを詠んでゆくという姿勢とは異なるものを志向している点で、俳文学者乾裕幸氏の、「季語は、古典と現代、幻想と現実、優雅と卑俗等々の仲介者」という論と通底しているとし、そもそも季題主義の権化のような虚子にさえ

酌婦来る灯取虫より汚きが

という句があることから、季語のみを詠み込むのではない、「主題に奉仕する言葉として季語を見る」俳句というものが元々あったのであり、それが若手を中心に顕在化しつつある、とする流れだ。

季語以外に主題を見ることで、俳句の領域を拡大し、季語そのものの更新もはかることができる、という野心的な論だと思うが、最後の段落における「季語以外の主題を意識するほど、主題の通俗性、散文性を、詩歌の枠内にとどめておく「仲介者」としての季語の役割は、むしろ重くなってくる」というまとめは、いささか疑問を感じないでもなかった。仲介者の役割を担うことができるのは、本当に季語だけなのか、という点である。

もちろん、有季定型派の大多数に対する目配せの意味もあるには決まっているが、実際、季語以外に仲介者はいないのか、というのは気になることではある。なぜなら、少なくとも髙柳氏の議論においては、季語が俳句の中でどう使われているかという点から「季語が仲介者である」の論議がなされているのであり、季語が季節の言葉であるというところに立ち戻った形で「仲介者」の議論が出ているわけではないからだ。だから、季語であることは、仲介者であることの必要条件ではあっても十分条件ではないかもしれないのである。

しかし、季語以上に「古典と現代」、「優雅と卑俗」をつなぐにふさわしいものは確かに実感としてちょっと思いつかない。それは、季語というものが千年以上の間に多くの詩歌によって鍛え上げられてきた言葉であるからではないか。古人を思い起こすものであると同時に、自分自身でも実感できるものでもあり、はるかを思うものであると同時に、自分の身近にあるものでもある。日本語が、季語というものをそういう言葉として鍛え上げてきた経緯があるからではないか。

そもそも無季俳句における「仲介者」とはなんだろうか。

二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり 金子兜太
鉄を食ふ鉄バクテリア鉄の中 三橋敏雄
戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡辺白泉

タイプの異なる無季俳句を並べてみた。先ほど僕は、「季語以外に仲介者はいないのか」という問いをたててみた。しかし、実際にこうして無季俳句を並べて見てみると、無季俳句とは、仲介者を顕在化させない方式と言うこともできないだろうか。

金子の句では、テレビで黒人がスタートダッシュをしているということ自体は単なる現実である。そこに「二十」という数の限定を行なうことで、もちろんこれは電機屋の店頭であろうと思うものの、どこか異様なエネルギーが渦巻いた空間を作り出している。そこに、現実がゆがんで幻想に足を伸ばそうとする契機が孕んでいる。

三橋の句では、鉄バクテリアの存在そのものが、我々にとっては実感できるものではないという点で幻想のようなものであるが、そこに「鉄を食ふ」という措辞を持ってくることであたかも現実としてそれを感じ取ることができるような書き方をしている。しかも、「鉄の中」という落とし込み方のナンセンスさが、幻想を些細な現実と隣り合わせにしている。

渡辺の句は、「戦争」という抽象と「廊下」という具象を「立つてゐた」という言葉で強引に結び付けたもの。その強引さは、新興俳句らしくモダンな現代詩の味わいを残しており、仲介者を顕在化させる有季俳句とは異なる質感をもたらしている。

それぞれ三句とも、顕在化した仲介者ではなく、句を書きあげる方法論の中で、詩的空間を構築していると言えよう。よく、無季にするためには死や戦争といった大きな主題が必要だ、と言われることが多いが、それ自体が、季語を主題とした見方をベースにした話であり、主題ではなく仲介者としての季語、という見方を認めるならば、無季俳句において季語にかわるものを模索するのは、実はもっと難しいことなのかもしれない。

なぜ季語以外に仲介者が顕在化しないのか。高山れおな氏が豈weekly95号で坪内稔典氏の著書『モーロク俳句ますます盛ん -俳句百年の遊び』に触れている文章(「モーロクの辺境の反対なのだ 『モーロク俳句ますます盛ん -俳句百年の遊び』をめぐって」)がある。その中で、彼は、ネンテン氏が俳人は日本語の辺境に住んでいるべきだ、と発言したことに触れて、次のように述べている。

俳人という人種の稟質からすれば、当然、日本語の辺境に住んでいるはずだとわたくしも思い、また辺境に住んでいるべきだとさえ思いますが、じつは俳句というのが全然辺境でなかったりする可能性はないのでしょうか、日本語においては。「自己、正義、理念」が位しているべき場所に、よりにもよって「俳句」が席を占めている。二十年来のわが国の政治状況を見ながら、わたくしの中で半ば確信となりつつある悪夢です。恐怖と申しても過言ではありません。第二芸術論は結局のところ無力だった、ということでしょうか。不幸にもなのか、幸いにもなのか、なにがなんだかわかりませんが。

よりにもよって日本語の中心に据座っているのは、俳句、というよりも、季語なのではないだろうか。日本語は、「自己、正義、理念」といった概念を育てる代わりに、季語という四季の風物に対する美的感覚を磨いて来たのではないか。

だから、僕らがやらなければならないのは、便利な季語を使って現代を更新してゆくことや、仲介者を顕在化しないことで句法を編み出してゆくことと同時に、季語以外の、まだそれがなんであるかよく分からない辺境の「何か」を仲介者として育ててゆくことでまだ誰も見たことのない新しい俳句を作ってゆくことではないのだろうか。それとも、そんなことはただの夢想に過ぎないだろうか。


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