2010-08-08

【週俳7月の俳句を読む】菊田一平(上)

【週俳7月の俳句を読む】(上)
蛇口は上を向いている
…… 菊田一平


「バナナの黒子」  後藤貴子

南国忌SP盤の黒光り


「南国忌」の季語に胸を突かれると同時に、いや待てよ、とも思った。

というのは上五の「南国忌」でふたつのことを連想したからだ。ひとつは4月に宮崎県で発生した牛の口蹄疫で何万頭という牛たちが殺処分にされたことへの悼み。もうひとつは、芥川賞・直木賞と名を冠せられた直木三十五の代表作が「南国太平記」という薩摩のお家騒動を書いた小説で、もしかしたら芥川龍之介の忌日を「河童忌」というように、直木三十五の忌日を「南国忌」といいはしないかと思ったからだ。

調べてみた。なるほど、まず直木忌があって三十五忌、南国忌と続く。昭和9年(1934年)2月24日、本郷の東大病院で結核性脳膜炎で死去、43歳。本名・植村宗一。ペンネームの直木三十五は、植村の「植」を分解して直木の姓とし、三十五は、31歳で作家生活をスタートし、加齢とともに数字を増やしていったものが35歳で定着したものらしい。

「バナナの黒子」と題する後藤さんの10句に無季の句が多々まじっているとはいえ2月24日に亡くなった直木三十五の忌日の句が入っているとは考えにくい。ということは、口蹄疫で殺処分された何万頭という牛たちの無念を詠んだ句に違いないと考える。

そう思うとひとつの光景がありありと浮かぶ。たびたび流されたニュース番組の映像のひとつに、牛小屋に繋がれた大きな牛が撮影するTVカメラを斜め下から憤怒の表情で見つめる映像があった。狂気とも違うあの怒りの目は、威厳に満ちて堂々とし、3ヶ月の間揺れに揺れた口蹄疫問題をワンカットで表現しきってしまうほどの凄みがあった。

後藤さんの「南国忌」の句を読みながらそんなことを思った。



    
「厨にて」  
秦 夕美 

歴代の油じみあり花うつぎ  


秦さんの10句に直接「厨にて」の言葉を読み込んだ句はない。普通俳句の題は掲載句のもっとも気に入った句から付けるものだけれどそうではなかった。

「厨」の「一夜酒」、「更屋敷」の「厨」、「瓜茄子」がある「厨」、「厨」の「猫の眠り」、「厨」で使った「包丁」たちの「塚」、「厨」でしみついた「俎板」の「音」たち・・・と前書きのようにタイトルの「厨たち」を読むことができる。

さて掲句、「歴代の油染み」とは何代にも渡って染み付いたひとの営みの痕跡。作者は「油染み」といっているが決して「油」とか「染み」が現す負のイメージではない。営々と蓄積されてきた旧家の「歴史」のようなものなのだろう。季語の「花うつぎ」の素朴な純白さがオブラートのようにその措辞を覆っていい効果を出している。



「潮騒」
  小林苑を  

田水沸く向かうに小学校の窓


苑をさんの句をよんで「田水沸く」っていい季語だなとしみじみと思った。手もとの「季寄せ」には「激しい日差しに、田水は湯のように熱くなる」とある。これだけでは「熱い日差しで湯のようになった水で稲の根っ子や茎が腐ってしまうんじゃないだろうか」と負のイメージを持ってしまうけれども、熱くなった田水が稲の開花を促進させ、やがて秋の豊穣の実りを約束するのだ。東北あたりでは「やませ」が吹いて田水が沸かないまま冷たい夏を過ごしてしまうことがあり、たびたび冷害の悲劇を生んできた。

いいなあこの景。青田の向うの小学校。多分校舎は木造の二階建てで、校庭には国旗掲揚塔と樹齢を経た何本かの松の木があって、広い校庭は土で消えかかった運動会の名残りの白線が残っていて、鉄棒やシーソーや竹のぼりの竹が立っていて水飲み場の蛇口のいくつかは上を向いていて・・・そしてぽつんと二宮金次郎の像。

この句、小学校をいうのに余計なことはいわないで「小学校の窓」といったところが上手い。




秦 夕美  厨にて 10句 ≫読む
後藤貴子 バナナの黒子 10句 ≫読む
小林苑を 潮騒 10句 ≫読む
寺澤一雄 夏八十夜 80句 ≫読む

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