2010-08-08

【週俳7月の俳句を読む】上田信治

【週俳7月の俳句を読む】
真顔でげらげら …… 上田信治


鉢かづき姫のおはなし瓜茄子 秦 夕美

この「瓜茄子」が、実に感に堪えないというか、グッと来るんですが、その説明はちょっと長くなる。

怪異譚のキャラが跋扈するこの一連、鉢をかぶってとれない娘も、妖怪のお仲間みたいなもんです。でもって、この「鉢かづき」、くだんの娘が公家の家に下女として入って、というストーリー(wiki)なので、「瓜茄子」は、おそらくその「おはなし」の現場にあった。

つまり「鉢かづき」と「瓜茄子」は、相同の存在なんです。おおむね、艶っとして丸いですしね。

「瓜茄子」は、おとぎ話に登場するような、時間を越えて親しく懐かしい存在として立ちあらわる、なんなら妖怪でもありうるような、キャラ化した──そういうものの呼び名です。

考えすぎ? でも「真桑瓜」だったら、ぜんぜん普通ですもんね。なかなか、こんなふうには、野菜のことをうたえないですよ。

高い山から谷底見れば、瓜や茄子の花盛り♪


田水沸く向かうに小学校の窓  小林苑を
長椅子に乗せた素足に砂ひかる


評判の句集『点る』(ふらんす堂)を上梓したばかりの作者。

この田園風景と、美人画の2句に共通するのは、距離感と構図です。「田水」と「窓」の、水平と垂直、その位置関係。「素足」とその持ち主である自分の距離を、確定する「長椅子」。この空間に、暑中の涼が、呼び込まれているのですね。


石割れば石の模様や夏の山   寺澤一雄
長虫のまん中咥へ烏飛ぶ
ズッキーニ花は黄色に実も黄色
鼈と亀の間の子南風
佃島念仏踊り何百年
夕方の買物籠に茄子胡瓜


ユーモア的精神態度をその力動的機能の面から説明しようとすれば、次のような仮定を立てざるをえない。すなわち、このような態度の本質は、ユーモリストその人が、心理的なアクセントを自我から引き上げて、それを、超自我の方へ転移したという点に存する、と。(ジクムント・フロイト「ユーモア」)

つまり、まあ、現実を「子ども扱い」するのが、ユーモアというものであって、そういう意味で、俳句も、また「超自我」として、すばらしくよく機能する。

「神」の視点から見た万象には、発見も美もありえません。花は紅、柳は緑。すべては、当り前な上にも当り前であり、退屈した神々は「またお前か」と言って、真顔でげらげら笑うのです。


秦 夕美  厨にて 10句 ≫読む
後藤貴子 バナナの黒子 10句 ≫読む
小林苑を 潮騒 10句 ≫読む
寺澤一雄 夏八十夜 80句 ≫読む

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