【追悼・森澄雄 一句鑑賞】
熱い「ぼうたん」の幻
岡村知昭
ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに 森澄雄
普段の自分なら「ぼうたん」と出てきた時点で一句に向かおうとする気が早々になくなってしまう。もちろん古典から用例を探してみたら見つかるかもしれないのだが、それでも牡丹はあくまでも「ぼたん」で「ぼうたん」ではないはずだとの感じずにはいられないからだ。そのため蜻蛉を「とんぼう」、二月を「にんがつ」と使った一句に対しても同じような取り扱いをさせてもらっている、こればかりは語感の問題だからと思っていたからだ。だがこの一句に出て来る「ぼうたん」を何度も口ずさむとき、いつもの自分の基準はどこへやら、この句は実にいいなあと思ってしまう自分がいるのに気がつき、驚いてしまうのだ。すでに名句として喧伝されていることを差し引いてもこの評価は変わらない。この百の「ぼうたん」は決して「牡丹」でも「ぼたん」ではない。野を吹く微風を受けてかすかに揺れる百の「ぼうたん」でなければならないのだ。
なぜだろうと思いながらもう一度口ずさんでみると、下五の「湯のやうに」がなんともいえず引っかかってくる。自分の中で「湯」と来て頭に浮かぶのは十分に沸騰した熱湯なので、それが風に揺れる花に対する形容というのは意外性が高く感じられるからだ。もう一度この一句を口ずさむときに浮かび上がってくるのは、熱湯に不意に手をつけてしまい「熱い・・・!」と思いながら手を引っ込めてしまったときのように、百の「ぼうたん」が風に揺らぎながら発する熱に微かなおののきを感じてしまい、これまで見てきた花々からは決して感じることのなかった熱さを受け止めてしまい思わず「熱い・・・!」と小さく呟いてしまった人物の姿。「ぼうたん」の美しさをどうこうと讃えるのではなく、風と百の「ぼうたん」が作り上げた空間へのおののきを柔らかく、しかしまぎれもない実感として描こうとしたとき、「牡丹の百」の実在ではなく「ぼうたんの百」の幻が選ばれた。その選択によって風に揺れながら熱を発してやまない百の「ぼうたん」は一句の空間の中で確かに息づくものとなったのだ。
「ぼうたんの百」が発する熱を味わいながらもう一度口ずさんでみるとき、自分としてはやっぱり「ぼうたん」とは使いたくないとの気分になるのだが、もしかしたらこの一句があるためにここまで使い切れないとも思いのほうが強いのかもしれない。どちらにしても自分の中での「ぼうたん」はこの一句に封印ということにさせていただきたい、いつか「ぼうたんの百」以上の幻と出会い、封印の解かれる日が来ることも願いつつ。
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2010-08-29
追悼・森澄雄 一句鑑賞 岡村知昭
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