2010-08-29

追悼・森澄雄 一句鑑賞 猫髭

【追悼・森澄雄 一句鑑賞】
死者に対する節度

猫髭



妊りて紅き日傘を小さくさす  森澄雄

先週の週末、BARの片隅で呑んでいると、隣の席で、常連の一人が携帯の画面を女にかざしながら、森澄雄が矢島渚男と論争したのが全部読めるんだよ携帯でさ、ほらこれ、と話している。その男は俳人ではなかったので、一般人が俳人に興味を持つのは珍しいと、聞くとも無く聞いていると、森澄雄の俳句「われもまたむかしもののふ西行忌」を、矢島渚男が、自分が兵隊だったから武士だった西行に譬えるとは森澄雄も落ちぶれたものだといったような批判をし、それに対して森澄雄が戦争を知らない東大出の若造がと罵倒したというような話をしている。

森澄雄というと、若い頃は「除夜の妻白鳥のごと湯浴みをり」という気恥ずかしい句で有名な愛妻俳人ぐらいにしか思っていなかったし(本人も読み返すと恥かしいと書いている)、同時代人としての俳句は、総合俳句誌の寄稿を見る限り、俳壇の武者小路実篤(晩年の)といったイメージで、溝の切れたレコードのように同じ事をぐるぐる繰り返す耄碌俳句を詠んでいる好々爺としかわたくしには思えなかったので、そういう啖呵を切れるほど威勢がよかったのかと、晩年の大岡昇平の『成城だより』を思い出し、意外だった。

帰宅してメールを開くと、「週俳」の編集者から、森澄雄追悼特集の一句鑑賞の依頼が来ていた。わたくしは新聞もTVのニュースも昔から見ないので、氏の訃報を知らなかった。インターネットで検索すると、読売新聞の訃報記事にこう書いてあった。

「生きて帰国できたら、妻や子供を愛し、平凡に生きてゆきたい」。1945年にボルネオの密林で「死の行軍」を経験したことが澄雄さんの俳句人生の原点となった。<翁ともに酷暑を歩きいくさの日>。マラリアや飢えで死者が相次ぎ、終戦を迎えた時、約200人の中隊は8人になっていた。 復員後、アキ子さんと結婚して上京。東京都立第十高等女学校(現都立豊島高)の社会科教師となり、同校の作法室に住み込んだ。<冬雁や家なしのまづ一子得て>は、長男の潮さんが生まれたときの句。社会性のある句が重んじられる中、54年の第1句集「雪櫟(ゆきくぬぎ)」は一教師の質素な生活を詠み、自分と向き合った句で注目された。

とある。「妻を題材にした句だけを集めて一冊の本にできる俳人は、森澄雄以外に誰かいるだろうか」と清水哲男氏が『増殖する俳句歳時記』で書いていた背景には、「ボルネオ死の行軍」で生き残った8人のうちの一人という事実があることを初めて知った。作品を鑑賞するのに史実的な背景を知る必要は必ずしもないが、気恥ずかしい愛妻俳句を延々と詠み続けた背景に戦争体験があったということはそういうことかとわたくしは得心が行った。

また、それだけの凄惨な戦争体験と故郷の長崎の原爆忌を生涯に一句づつしか詠めなかった森澄雄の死者に対する節度は、飛行機が墜落して九死に一生を得たわたくしの父も、髑髏のような死者の顔ばかり描き続けたラーゲリ収容所から帰ってきた画家だった友人の父も、生涯戦争の話をほとんどしなかった、語り継げない重さを内に抱えて生きた愛妻家だった事実を思い起こさせた。

そう思うと、記憶にある森澄雄の愛妻の句は、戦争を体験した男たちの言葉にならない妻子への思いを代弁しているような句にも思える。

雪礫夜の奈落に妻子ねて
枯るる貧しさ厠に妻の尿きこゆ

野遊びの妻に見つけし肘ゑくぼ

新緑や濯ぐばかりに肘若し
向日葵や起きて妻すぐ母の声
葉がでて木蓮妻の齢もその頃ほひ
妻がゐて夜長を言へりさう思ふ
木の実のごとき臍もちき死なしめき
天女より人女がよけれ吾亦紅
飲食(おんじき)をせぬ妻とゐて冬籠
妻亡くて道に出てをり春の暮

掲出句は、森澄雄の愛妻俳句の中で、わたくしが最も愛する句である。この句には気恥ずかしさは覚えない。太宰治の名短編『満願』の、日傘をくるくる回しながら垣根の外を歩く病後の若妻の後日談の一句のような明るさがある。命を運ぶ一句であるせいだろう。氏の御冥福を祈る。

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